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“11月5日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1605年  カトリック弾圧に抗議して英国の議事堂爆破を図ったガイ・フォークスが捕えられた。

ガイは元軍人で熱心なカトリック信者だった。イングランド国王ジェームズ1世の国教会優遇政策でカトリック教徒が弾圧されているのに抗議するため国王が出席する上院の開院式を狙った「火薬陰謀事件」の首謀者とされる。ウエストミンスター宮殿の議事堂地下の石炭貯蔵室に火薬を仕掛けたが、決行寸前に何者かの密告で捕まった。

ロンドン塔に投獄されたガイは連日、厳しい拷問を受け、ついに計画の内容や陰謀に協力した仲間の名前の<自供>に至る。さらに自宅から議事堂の爆薬と同じ成分の爆薬が見つかった。これには偽装説もあるが形式的な裁判で国家に対する大逆罪として有罪となり極刑に処せられた。スコットランドでは<自由を求めて戦った英雄>とされ、ガイは陰謀に加担させられただけという評価も根強く英国裏面史に登場する有名人物である。

ガイは立派なヒゲを蓄えた赤毛の大男で「男、奴」を意味する英語のガイ(guy)は彼の名前から。最近ではインターネットを賑わせる一方でウォール街の占拠事件で有名になった匿名集団「アノニマス」の仮面もガイに由来する。

*1857=安政4年  長州萩城下の松本村=現・萩市の松下村塾を吉田松陰が引き継いだ。

松陰の叔父・玉木文之進が15年前に開塾し松陰もここで学んだ。松陰は藩校明倫館の塾頭をつとめていたが1854=安政元年、伊豆下田港に停泊していたペリー提督のポーハタン号に密航を企てたとして萩の生家・杉家に幽閉された。松下村塾はその敷地内にあった木造瓦葺の平屋だったが当初からの八畳に十畳半を増築した改築工事が終了したところで松陰が引き継ぎ、士分しか入学できなかった明倫館とは違い町民や農民にも広く門戸を開いた。

翌年、松陰が老中の暗殺を計画した容疑で再び投獄されると塾は廃止になった。50人ほどいた塾生から尊皇攘夷を掲げて京都で活躍した久坂玄瑞や高杉晋作、明治新政府の伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎らを輩出した。理想を説き続けた松陰も<熱い人>だったが集った若者たちも同じく<熱い志>を持っていた。学問だけではなく水泳や登山を取り入れたことでも知られる。

萩に残る松下村塾の建物は「こんなところから」と驚くようなささやかな学び舎だが近代化産業遺産群として世界遺産の暫定リストに登録されている。

*1945=昭和20年  山田風太郎は『戦中派不戦日記』で日本のマスコミや論壇を鋭く糾弾した。

戦争中は敵の邪悪のみをあげ、日本の美点のみを説き、敗戦後は敵の美点のみを説き、日本の邪悪のみをあげる

「実相に目をつぶるな」という鋭い指摘は、戦争に翻弄された人間の狂気、悲劇、愚かしさを一歩引いた立場から見据える<戦中派>の確かな視座であるといえる。

*1906=明治39年  「東海道線の急行列車の食堂車では茶碗蒸しなど温かきものを準備中」と新聞に。

「追々寒冷の候に向かいつつあるを以て」とあるからつまり<冬期メニュー>の準備が始まったというニュース。国鉄では1901=明治34年12月15日から新橋―神戸間の急行2往復に連結した食堂車を精養軒に運営委託して好評だった。

しかし利用できたのはいまのグリーン車にあたる1、2等の乗客のみだった。3等の客には行儀の悪い者が多かったため利用者に不愉快な気持ちを持たせないようにといわれたが、居心地が良くて3等の乗客が居座るのを警戒したからとも。食堂車を境として前後の編成を1、2等と3等に分けるのも戦前はずっと続いた。

1941=昭和16年  御前会議で「対米英蘭戦争を決意」し「武力発動の時機を12月初頭」と定めた。

併せて日米交渉の期限を12月1日午前零時とするとの「帝国国策遂行要領」が対米交渉の甲・乙案とともに決定された。8月のアメリカによる対日石油全面禁止を受け、4国に対しては最低限の要求が容れられない場合は開戦するという方針が9月6日の御前会議での昭和天皇の反対で流れた。あくまで外交で解決すべきという思いだったとされ天皇は

  四方の海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらむ

の明治天皇の御製を引いたとされる。だが東条内閣による御前会議での再検討で覆った。

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