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“5月29日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1953年  イギリス隊が8回目の挑戦で世界の最高峰エベレストの初登頂に成功した。

午前6時30分に南西稜から頂上に続くサウス・コル=7,986mの第8キャンプを出発したエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイは最後の斜面を登り、11時30分に8,848mの頂上に立った。

「突然、すべてのものが彼らの周辺で滑り落ちて無くなった。彼らはエベレストの北屋根を上から眺め下ろすことができ、チベットの果てしない乾いた高原をはるか彼方まで、東方にカンチェンジュンガの山群、また西に向けば幾重もの高峰を、一望のうちに目に入れることができた。彼らは手を握り抱き合い、持参した彼らの旗をはためかせた。その短い数刻の間、二人は成し遂げたものを手放しに喜び、完全に一体になった。それから二人は長い危険な下りに取り掛かった」
(クリス・ボニントン『現代の冒険(上)』岩波書店・1987)

「8回目の挑戦で」と書いた。実は前年、スイス隊が割り込むように登山申請をし、頂上直下250m地点まで迫ったが悪天候で撤退していた。酸素吸入器が重量の割には放出量が少なく休憩時間しか使えなかったのも登高速度に影響した。遠征が認められなかったイギリス隊は隊長のジョン・ハントを中心にこの一年を装備の改良にあて、なかでも成功の鍵を握る酸素吸入器の改造に力を注いだ。

イギリス隊は是が非でも成功させなければならない強い動機があった。翌年(54年)はフランス隊、翌々年はスイス隊が再度の登山許可を得ていた。しかも間もなく6月にはエリザベス2世の戴冠式が控えていた。登頂が成功すれば何よりの祝福になる。

最終局面で隊長のハントは第8キャンプより上にアタック・キャンプは作らず一気に登頂をめざす作戦をとった。二番手だったヒラリーとテンジンのペアを最終アタックのメンバーにし、自身も軽い不整脈の兆候があったからドクターに反対されたがそれを押し切って体力を消耗する荷揚げ作業に加わった。

少しだけ書き加えておくと遠征隊が麓のカトマンズの町に戻って来たときネパールのナショナリストたちはヒラリーを無視してテンジンを英雄に祭り上げて町中を行進した。手に持っていたのは頂上に達したテンジンが太った白人男を後ろに引きずっている漫画のプラカードだった。ハントとヒラリーにだけ英国勲章ジョージメダルが授与されたことも一時は人種差別だと騒がれた時期もあった。しかしヒラリーもテンジンも「どちらが先に頂上を踏んだのか」というマスコミの質問には<同時>としか答えなかった。ヒラリーは「シェルパ基金」を管理して多くの小病院や学校を建設し変化していく国際社会のなかでうまく適応していけるようにしたことは彼の最大の恩返しだった。

無酸素でのエベレスト初登頂は1978年5月にイタリアのラインホルト・メスナーが成功している。86年には人類史上初のヒマラヤ8,000m峰全14座の無酸素登頂を成し遂げたことで<超人>の称号がつけられている。

*1901=明治34年  警視庁がペスト菌の侵入を防ぐため裸足歩行の禁止令を出した。

朝日新聞は「唯困るのは草鞋も買へぬ其日稼の人間なり。但し一方より考ふればペストのお陰にて東洋一の大都会を跣足(はだし)で馳せ廻る未開の風が除き去らるゝかと思へば双手を挙げて此庁令に賛成せざるを得ず」と報じた。

東京市は予防のため感染原とされたネズミを1匹5銭で買い上げ、さらに<景品>として「鼠くじ」をつけると発表した。捕まえたネズミと引き換えに発行するというもので21万7千枚を発行した。1等賞金50円が1名、2等20円5名、3等10円10名、4等5円50名で5等1円500名まであった。

当時の巡査の初任給が10円だったから抽選会には「傍聴席は婦人席まで充満」という盛況だった。

*1942=昭和17年  情熱の歌人・与謝野晶子東京・荻窪の自宅で没。享年62歳。

青山斎場で行われた葬儀では7年前に夫・寛(鉄幹)のときと同じく京都・鞍馬寺の信楽真純管長が導師をつとめ、高村光太郎が告別の詩を、堀口大學が挽歌を読みあげた。

生前、晶子がもっとも愛した桜の一字を入れて忌日は「白桜忌」。寛とともに多磨霊園に眠る。大理石でできたそれぞれの棺蓋には晶子の歌で

  なには津に咲く木の花の道なれどむぐら茂りき君が行くまで(寛)

  今日もまたすぎし昔となりたらば並びて寝ねん西のむさし野(晶子)

と刻まれている。

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