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“3月7日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1332=元弘2年  後醍醐天皇が流刑地の隠岐に向けて京の都をさびしく旅立った。

前年夏に「三種の神器」を持ち夜陰にまぎれ御所を抜け出した。一時は鎌倉幕府の打倒をめざして京都・奈良府県境の笠置山に立てこもったが捕えられ京都・六波羅に<幽閉>されていた。幕府打倒計画を信頼していた側近の吉田貞房に密告されて御所を出たとされる。

お供もわずかの天皇に対し幕府側の警護の兵は500騎を数え、婆娑羅(ばさら)大名のさきがけ佐々木道誉らの綾錦に飾り立てた華美な装束が見物人を驚かせた。こうなると厳重な警護というよりデモンストレーションかパフォーマンスの類です。天皇はいまのサントリー山崎蒸留所の近くの「桜井宿」を過ぎたあたりで乗っていた輿をとめさせると淀川対岸の石清水八幡宮を拝して<再起>を誓った。

この辺の描写は『太平記』にくわしいが、なぜわざわざ書いたかというとその祈りが通じたのか1年も経たないうちに都に戻ってこられたから。歴史はそのあと天皇による「建武の新政」「南北朝の争乱」へと続いていくのであります。

水戸光圀の『大日本史』では歴代の中でこの後醍醐天皇がもっとも評価が高く、吉川英治も『私本太平記』で新しい解釈を加えて売れに売れた。歴史はまさにオセロゲームのように評価や見方ひとつで<黒白>が逆転する。ゲームは<それで終わり>だけど。

*1932=昭和7年  帝都・東京を戦慄させた「玉の井バラバラ殺人事件」が発生した。

この日、当時の向島区(墨田区)寺島町の通称「お歯黒ドブ」という溝から麻ひもで巻かれたハトロン紙の包みが見つかった。一部が破れて男性の首らしきものがのぞいていたからたいへんな騒ぎになった。警察の捜索で道路を隔てた別の溝からも同じような包みが見つかりそれには上下が切断された胴体が入っていた。

新聞各社の見出しは朝日が「バラバラ」毎日が「八つ切り」読売が「コマ切れ」と報じたが「朝日のバラバラが残忍な殺人事件の扱いのなかに一脈のユーモラスを感じさせた。果たせるかな、後世まで「玉の井事件といえばバラバラ事件と人口に膾炙するに至った」と書かれたように見出しは朝日の勝利だった。

車が発達していない当時のこと、包みは重いため犯人はすぐ近所に住んでいるのではないかとみられたが一向に見つからず「事件は迷宮入りか」とまで言われた。新聞や雑誌は当時の「探偵作家」を総動員して様々な推理を展開させたなかで江戸川乱歩は<休筆宣言>の挨拶状を出したばかりに「自身が書いてきた猟奇事件が実際に起きたので嫌気が差した」と噂されるだけでなく<犯人説>まで出された。

有力情報が飛び込んできたのは秋も深まった10月だった。警察が聞き込みで本郷区湯島に住む39歳の長谷川市太郎の名前をつかんだ。長谷川を追及すると被害者は長谷川方に寄宿していた30歳の千葉竜太郎で「秋田には相当な田畑がある」とだまされたことに立腹した長谷川が殺したことがわかった。残りの死体は意外にも長谷川の弟で帝大工学部土木科に作業員として勤める23歳の長太郎が教室床下に隠していたことがわかり共犯で逮捕された。

最後にこの事件を巡るスクープ合戦を。たまたまトイレに入っていた朝日新聞の記者が現場に出かける前、小用に入った刑事たちの立ち話を聞いた。まさに<壁に耳あり>である。「バラバラ事件解決、犯人捕はれ被害者判明」という朝日の号外が出たのは20日だった。

*1900=明治33年  明治政府は未成年の喫煙を禁じる法律=第33号を出した。

文部省が1887=明治20年に小学生の喫煙を禁止する訓令を出したが一向に改善されなかったので範囲を未成年に拡大し4月1日からの実施とした。

<小学生>ですぞ!併せて喫煙を制止しなかった親やタバコを未成年に売ったものも処罰の対象とした。幕末の江戸ではタバコを吸わない者100人中2~3人とされ「男女平等、老幼差なし」と『煙草百首』に書かれているから<それでもマシ>になってはいた。

当時つくられた標語は「喫煙は貧国弱兵のもと」いまのようにやたらと健康への悪影響をPRするのもどうかと思うけど。

*1805=文化2年  幕府は長崎に入港したロシア使節のレザノフに通商拒絶を伝えた。

レザノフは前年9月にやってきたラックスマンの通商交渉の最終返事を聞くため軍艦ナデジュダ号でわざわざやってきた。対してはるばる江戸表からこの返事を伝えに来たのは目付遠山金四郎景晋(かげくに)だった。この日、レザノフを長崎奉行所に呼び出して最終回答を手渡した。

遠山金四郎、どこかで聞いたような、と思われるかもしれない。ご存じ「遠山の金さん」の父である。

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