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“3月8日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1935=昭和10年  この日朝、東京・渋谷のとある路地で老犬が死んでいるのが見つかった。

言い方を変えると<行き倒れていた>のだが場所は「渋谷駅近く」から「仲(中)通りの路地」「渋谷川にかかる稲荷橋付近、滝沢酒店北側路地の入口」とさまざまに伝わる。数日後に渋谷駅で行われた告別式には数百人が参列、僧侶が読経をあげる人間さながらの盛大な葬儀の様子をマスコミが取材する騒ぎになり“出棺”のあと遺体は東京帝国大学に運ばれて解剖され、剥製まで作られた。

名前は「ハチ」、別名を「忠犬ハチ公」という。そう、JR渋谷駅に「ハチ公口」という改札口まであり、駅前広場の銅像は今も昔も変わらない<待ち合わせスポット>になっている世界的にも有名な秋田犬の最期だった。

1923=大正12年11月10日に秋田県大館で生まれ東京帝国大学農学部の上野英三郎教授の求めで翌年1月、米俵に入れられ急行の荷物車に揺られ20数時間かけて東京にやってきた。教授宅は現在の渋谷区松濤にあり子犬の頃は玄関先で見送ったが時には坂を下って渋谷駅までお供することもあった。ところが飼われて1年余りが経った1925=大正14年5月に上野教授が教授会の席上での脳溢血で急死する。その後は日本橋の呉服屋などに預けられたが人懐っこいあまり、誰かれなく飛びつくことから教授宅へ戻され、出入りの植木職人宅に引き取られたが脱走を繰り返した。

それから7年後の1932=昭和7年10月2日の夜、聯合通信の社会部記者細井吉蔵が仲間と渋谷駅前のおでん屋で飲んでいると、のれんの下からうすでかい犬が足元に寄ってきた。
一瞬ギョッとしたが、体が大きいのに似ずおとなしそうな日本犬だった。
「なかなかいい犬だな、この店のかい」
「いや、そうじゃないんですよ」
「野良犬かあ」
おでんの残りを投げてやると、ノッソリと体を動かして食べる。
「実はねえ」
おでん屋のおやじが語り出した話を細井は多少、脚色して記事にして各新聞社に配信した。2日後に「朝日」などを皮切りに紹介された記事が『いとしや老犬物語』だった。

今は世になき主人の帰りを待ち兼ねる7年間
東横電車の渋谷駅、朝夕真っ黒な乗降客の間に混じって人待ち顔の老犬がある。秋田雑種の当年とって11歳のハチ公は、犬としては高齢だが、大正14年の5月に大切な育ての親だった駒場農大の上野教授に逝かれてから、ありし日の習わしを続けて雨の日雪の日の7年間をほとんど1日も欠かさず、いまはかすむ老いの眼をみはって、帰らぬ主人をこの駅で待ち続けているのだ・・・(後略)

多分に浪花節的な筆致の記事は40行ほどで、社会面ではなく家庭欄の囲み記事だった。書いた記者本人もデスクも誰もがこの記事が戦中、戦後を通じて渋谷駅の名物「忠犬ハチ公」にまで発展しようとは夢にも思わなかった。

ところが記事が出ると新聞社だけでなく渋谷駅にまで「これをかわいそうなハチ公にあげてください」と小学生から大人まで連日お金が届き始めた。この話に感動した帝展彫刻審査員の安藤照がハチをモデルに塑像を製作して帝展に出品したことでさらに大きな話題に。ついには秋田県や国鉄、東急だけでなく諸官庁も巻き込んで募金活動が繰り広げられ、海外からも募金が届いた。

記事から2年後の1934=昭和9年4月21日にハチも参列して盛大な銅像除幕式が行われた。共同通信社の元編集局長・高田秀二の『物語特ダネ百年史』(68年、実業之日本社)から引いた。高田は「ハチ公はたしかに主人に忠実な犬であったのだろう。主人の死も知らず、駅で帰らぬ教授を待つうちに、そこが安住の場所になった。だが言いたいのは細井記者たちが記事にするまでただの一人もハチ公を<名犬>とも<忠犬>とも見てくれなかった事実である。おそらく細井記者たちもおでん屋にやってきたハチ公を、心から名犬とは考えなかったのであろうがその後のハチ公は時代の花形になった。忠犬ハチ公は<読者が発見した>のだといえるかもしれない」。

解剖の結果、死因は重度のフィラリア症などの合併症で、胃のなかから焼き鳥の串が数本見つかった。内臓標本は東大農学部に、剥製は国立科学博物館にそれぞれ保存されている。

*1883=明治16年  京都府立女紅場=裁縫学校の授業に体操が初登場したときの評判記。

「首振りのために結び立てのマゲのゆるむなど最も恥ずかしき事なりとて、体操の始まらぬうちに退校するものも続々あるよし」

この日の「郵便報知新聞」が書いている。どれほど続々だったのかについては書かれていないが新しく導入された授業科目だったわけでまさに<体操なんて恥ずかしいワ>ということだろう。

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