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私の手塚治虫(9) 峯島正行

「天下太平」いずこへ

漫サンへの挽歌

週刊漫画サンデー

暮れから正月、八七歳になった私が、公私にわたっていまだ経験したことのない大小の事件が、身の回りに起こって、ついついと、この文章を書くのが遅れてしまった。

その間に、この文章にも関係する『ひとつ』の事件が起きた。

二月一一日付の東京新聞を開いたところ、1面トップに八段抜きで、[漫画誌 休刊続く]と題した大きな記事が出ていて、びっくりした。そのトップは次のように書かれていた。

「出版不況の中、漫画雑誌の減少がとどまらない。大人向けの漫画誌『漫画サンデー』(実業之日本社)が、一九日発売の三月五日号を最後に休刊する」とあり、雑誌の写真や、これまで掲載された漫画の幾つかが紹介されていた。その中に24年間連載された、新田たつおの「静かなるドン」の名前なども上がっていた。確かに24年連載というのは記録的な事ではある。

私は54年前、この雑誌の創刊の編集長であった。新聞に休刊の記事が出る前に、実業之日本社に顔を出したとき、社長の村山氏からそれとなく休刊のお話を伺ったが、私自身としては、別に衝撃的感懐を受けなかった。ただ、かつて自分の勤めていた会社の問題としての感想しか持てなかった。

というのは、昭和五〇年、某編集長が就任した時、ナンセンスまんがを中心に、アメリカの「プレイボーイ」に似た洒落たムードを売り物にしていた、この雑誌を、極く庶民向けの娯楽劇画誌に、内容を変更してしまった。

そして東京新聞の休刊記事の中で日本漫画学会会長の肩書を持つ、呉智英氏がいみじくも言った「漫画サンデーは、大衆食堂や田舎の喫茶店に置かれてきた庶民的な雑誌だった」という言葉通りの雑誌に変貌を遂げてしまった。

この変身の時に、私は、自分の作った漫画サンデーは,終焉を迎えたと思い、その時、すでに強い失望感を味わっていたのだった。その失望感をいまさら、味わいなおすことはないのである。

社会的に見れば、庶民のための娯楽は必要だし、そのための雑誌も必要だろう。同じ劇画でも、ピンからキリまでの読者がおり、深く人生をえぐるような知的な劇画もあれば、単なる暇つぶしの娯楽作品もある。その庶民的作品だって、社会全体から見れば、決して、否定すべき存在ではあるまい。それはそれで社会的機能は持っているだろうから、いちがいに否定はできまい。

庶民的娯楽雑誌にして、経営上のプラスになり、そのための書き手を養成し、庶民のエンターテインメントになるなら、それはそれでよい。

しかし、そのような雑誌に変わった瞬間から私の作った雑誌とは別物になったのである。

昭和三四年八月、この雑誌を創刊した時は洒落た大人向けの、品格のある、ナンセンス漫画を中心とした、文章もそれに見合った作品を掲載し、実際には違ったものしかできなかったが、「ニュウヨーカ―」や「プレイボーイ」のような雑誌を頭の中に置いて、編集をしていたものである。

意気盛んだった漫画集団の主要メンバー、横山隆一、近藤日出造、杉浦幸雄といった集団御三家といわれた人の他、加藤芳郎、西川辰美、荻原賢治、横山泰三などが、執筆の常連になったばかりでなく、そのころから漫画壇に登場してきた有力新人の中から、富永一朗、サトウサンペイ、馬場のぼる、鈴木義司、園山俊二、福地泡介、東海林さだお、秋竜山、砂川しげひさ、黒鉄ヒロシなどが、ナンセンス漫画の傑作を生みだして行った。

また小説では、山田風太郎の忍法帳を、第二作目の「江戸忍法帳」から四作連続連載して、忍法ブームの源を作った。

表紙には、横山隆一、秋山庄太郎、小島功の写真や漫画を使った。とくに小島功の表紙絵は、彼の女性像の作品集といえるものであった。グラビアページでは、日本の週刊誌では初めてヌード写真を掲載した。そのカメラマンも秋山庄太郎、杉山吉良、大竹省二、中村正也、細江英光など、一流の人に撮ってもらった。

さらに、子供漫画の世界から、第一人者の手塚治虫が常連作家として加わり、後には赤塚不二夫、藤子不二雄まで登場するに至る。

こうして自他共に認める、一流の異色週刊誌としての名前をほしいままにした。創刊から50年たった時でさえ、先の呉智英は、次のように述べている。

「漫画サンデーは、創刊から10年ほどの1960年代後半までは、ナンセンスまんがの第一級の舞台であった」「第一級の舞台であるマンさんには、錚々たるマンガ家が執筆している」(漫画サンデー平成九年八月一八日号、創刊五〇周年記念号)

この文章は、大体において肯定してよかろう。ただし1960年代後半迄はという表現は、1970年までは、という表現に代えさせていただきたい。

こうして創刊10年、雑誌の基礎も出来上り、創刊10周年記念パーティーも、東京会館で賑やかに開催された。当時としては週刊誌の編集長を10年続けるというのは異例のことであった。ともあれ雑誌の基礎が固まったと思われたのだろう、私は、新規事業の開拓に回って、編集長の座を降りた。

ところが、それからわずか数年、漫画界の情勢の変化、読者の嗜好の変化もあったろうが、次第に雑誌の内容に疲弊の色が漂い、内容も荒くなり、人気漫画家が少しずつ退いていった。そこで新たに何代目かの編集長になった某氏は、一挙に、雑誌を極く大衆的な、娯楽劇画を中心にした雑誌に切り替えた。それまで残っていた、難しい漫画はダメだといって、今までのナンセンス漫画を中心にした、連載物を、小島の作品を除いて、ほとんど連載中止にしてしまった。

私は、能持終われり、と思った。新規に立ち上げる週刊誌の創刊に苦労しながら、漫画サンデーの変貌に、切歯扼腕したものである。

頑張って漫サンを続けるべきだったかと、後悔の臍を噛んだりもした。

それから何年もたってから漫サンの若い編集者に、昔の手塚の思い出話をすると、「あんな偉い人にあったことがあるんですか」と言われた時には、人間、郷に入れば郷に従うものなんだな、と情けない感懐に浸ったことあったっけ。

「一輝まんだら」の中断

「一輝まんだら」より
「一輝まんだら」より
ともかくこの切り替えで、一番悔しい思いをしたのは、手塚の長編連載「一輝まんだら」が、あっさり切られてしまったことだった。戦争と昭和史に深い関心を持っていた手塚が約二年間の準備を整え、やっと、開始したのに、わずか半年で、切られてしまったのである。

一輝とは2・26事件の首魁の一人として銃殺された北一輝のことである。一介の浪人者のような北一輝が、なぜ若い将校に強い影響を与えて、反乱を起こさせたのか、そしてこの事件の後、軍国化がなぜ急速に進んだのか、今日でも疑問が多い問題だが、手塚はその疑問に挑んだのだ。

その解明に、一輝を主人公に、壮大な構想を以って始めた漫画で、まだ序の序という所で切られてしまったのである。

当時に漫サンの手塚担当編集者中村俊一は次のように語っている。企画から、執筆、そして中断するまで、現場にいた、ただ一人の人間が語った話だから、貴重な証言と言えよう。

「あのとき『一輝まんだら』が連載中止になることが、本当に悔しかった。せめて2・26事件勃発までは書いてほしかった。

手塚先生は、最初、昭和史全体を、漫画で書いてみたい、という壮大な夢を持っておられた。まず北一輝という歴史の裏側で踊った怪人を通して、2・26から戦争に向かう日本の姿を描くことから始めたい、ということを漏らされた。

先生、それはぜひ書いてくださいと、お願いした。その時は峯島さんは既に漫サンの編集長を辞められていたが、新編集長の了解のもとただちに資料集めにかかった。私は早稲田の史学科出身で、特に日本現代史を勉強してきたから、そういうテーマをやることに私は、うってつけの編集者だと自負していた。

学生時代の友人や先輩で、国会図書館に勤務している人間が何人もいた。私は彼らと相談し、手塚先生が必要とされる資料を集めてもらい、それを借りて、それを手塚のもとに運んだ。

何しろ国会図書館なんだから、ほしい資料はなんでも、見せてもらえるのだ。その膨大な資料を基に初めたに拘わらず、ほんの入口で終わらされてしまった、これが悔しい。

せめて北一輝の思想の動きと、2・26事件が起きて、軍部が世界を相手の戦争に突入する瞬間まで描いてほしかった。そうすれば手塚先生の人生観、世界観がもっと明確になっただろうと思う。

日本で、北一輝という人物をきちんと書いた人はまだいないのではないか。手塚流ではあっても、特別な北一輝の個性を書き表してはくれただろうと、いまでも思っている。

僕は北一輝という人物は好きでないが、ああいう人間になぜ手塚さんが興味を抱いたか分らないが、なぜ世間を外れた人間がまともな人間を動かし、ついに軍隊まで動かし、日本を戦争のるつぼに向かわせたのか、今でも現代史の大きな謎と思っている。手塚さんが、それに立ち向かって結果を出しておいてくれたならばと考えるのは、私一人だけはあるまい。

しかし私の集めた資料のおかげで、その後、手塚先生が歴史的作品を書くときに役立っていたと思う。例えば「アドルフに告ぐ」とかそういう作品を書くのに・・・・」

とにかく「一輝まんだら」は、昭和49年9月28日号より昭和50年4月12日号を以って、半年連載で、第1部の区切りをつけて終わっている。これが昭和62年、大都社より二巻本として発行されている。

これに手塚は、あとがきを書いている。少し長いが引用させていただく。

「北輝次郎――あの、2・26事件を生むきっかけをつくり、民族社会主義の旗じるしをかかげた一匹狼として、数奇な運命をたどった彼の、謎にみちた生涯を僕は、どうしても漫画で取り上げてみたかったのです。

北一輝と言えば、清朝末期から、中華民国にいたるまでの、中国の情勢を無視するわけにはいきません。漢民族の、革命と新生に賭けたエネルギーの強さが、異国の白皙のインテリ北青年にどう影響を及ぼしたか、そしてそれは国情も体制も異なる日本の社会にどうかかわっていったかを、描きたいと思いました。でもそれは、この第一部では、とうとう描けずじまいでした。

第一部は週刊漫画サンデーに約半年の間連載したものですが、同誌の内容の性格が次第にかわっていって、この題材にあわなくなって来たので、残念ながら一時中断したのです。

第二部は、日本の軍閥の跋扈と退廃、北青年の失意と上海での執筆活動、そして2・26事件の将校の蜂起、という核心に移していきたいと思います。どこかで連載をやらせてくれないでしょうか。」(「一輝まんだら」第二巻 あとがき 昭和62年3月 大都社)

どこかで連載をやらせてくれないでしょうか、という言葉の中に、こと志どおりに進まない、漫画に命を懸けた漫画家の心の奥底から湧き出る、ふかい慟哭の声が聞こえてくるような気がしてならない。

よって、この手塚のあとがきを以って、私が青年時代の情熱と生命をかけて作った、あの一級品だった「漫画サンデー」への挽歌としたいと思うのです。

最初の成人漫画

「一輝まんだら」にいたるまで、昭和38年、週刊漫画サンデー増刊号に載った「午後1時の怪談」以来、手塚治虫は、長短合わせて35編の漫画を描いてくれた。そのうちフースケが主人公の連作漫画「サイテイ招待席」

を長編連作漫画と考えるならば、長編漫画は「人間ども集まれ」「上を下へのジレッタ」「サイテイ招待席」未完の「一輝まんだら」の4編ある。また、読み切り漫画と言っても一〇〇頁に及ぶ作品や、4回連載の中編漫画も含まれている。

その間、昭和38年から、昭和50年まで、13年におよぶ。「手塚さんよく付き合ってくれたなぁ」という感懐を、今になって強く感ずる。そのうち私の編集長在任中に書いて貰ったのが約6年に及ぶ。

手塚は、漫画集団入会前から、執筆してもらっている。手塚は集団の若手有力者だった小島功、児童漫画の馬場のぼると仲が良かった。手塚は大正15年生まれといっていたが、実際は昭和3年生まれ、小島と同年だったし、馬場は昭和2年うまれだったが、三人は年の近い友達と言ってよかった。

この三人の仲が良いということから、手塚が他の漫画集団の人との交流も生まれた。そうなると、私にも手塚に近づくチャンスは多かったに違いない。なにしろ半世紀前のことで、私も記憶が曖昧になっていることが多いから、はっきりしたことがいえないが、馬場が子供漫画から、成人漫画家に鞍替えして大成功を収めてた。それを考えるにつけ、児童漫画のリーダーで第一人者である、手塚に成人漫画を書いて貰おうと思うのは、自然の成り行きだったと思う。手塚に成人漫画を描いて貰うというのは、私の野心となった。

そのつもりで私は手塚に接触し始めた。馬場が、その愛読者の成長とともに、成人漫画で成功しているのを見ていれば、勝ち気の手塚のことだから、俺も本気で大人の漫画に挑戦してみよう、と燃えるのも当然だったろう。

手塚はすでに漫画読本や、その他に大人の漫画を、ぼつぼつ描いていた。既にある程度の自信はできていたに違いない。ついに手塚は我々の要望に応えてくれることになった。

八月の第一,二週は当時の週刊誌のかき入れ時でもあった。こんにちの如くモータリゼイションが進んではいない時代だ。

盆の休暇で故郷に帰るのも、夏季休暇の旅行するのも、鉄道による割合が高い。その鉄道の駅のキヨスクの主要商品の最大なるのが、週刊誌なのである。出版社は皆この時期の発売される雑誌に力を入れたし、別冊なども出して客のフトコロを狙った。

昭和38年の夏の別冊の売り物は、手塚の読み切り漫画とすることになった。そして掲載されたのが、前記「午後一時の怪談」なのだ。これは手塚の自家薬篭中のSFの手法を使ったナンセンス漫画である。

手塚治虫成人漫画第一作「午後一時の怪談」
手塚治虫成人漫画第一作「午後一時の怪談」

簡単に中身を紹介しよう。現代のある日、いつもように夜が明けて一日が始まる。サラリーマンはいつものように、会社に出てゆく。主人公サンペイはバス停で、岡惚れしているアパートの向かい側の部屋の葉子にあう。昨夜陽子のところに来ていた男のことが気になってしょうがない。葉子に聞いても取り合ってもらえない。会社に行くと課長に怒鳴られる、昼飯に行くと、何時もの食堂は満員で、グリルに入ると高い金をとられ、会社の戻る途中財布を落としたことに気が付く。その時正一時になった。

その途端、朝になってしまった。もう一度同じよう時間が立つ。葉子には振られ、課長には大目玉を貰い財布を落とす。そうして、一時になると朝になってしまう。それが続き、世の中が目茶目茶になるのだが、学会の発表によると時間に一か所傷が出来て、レコードが傷のために、音が同じところを繰り返すように、時間が元に戻るのだという。

これはソ連のミサイル基地の兵隊がふざけて水爆発射のボタンを押してしまったために、一時になると水爆がどこかで破裂して、時間が傷つくのだという。

そうしたある日凄い衝撃が一時に走った。人間はみな気を失ったが、東京も日本も無事だったが、時間は一足飛びに、一年後に飛んでしまった。科学者は水爆のショックがあまり激しかったので、レコードの針が傷のところで溝を跳び越すように、一年先に飛んでしまったのだと説明する。みんなは救われたと喜ぶが、サンペイ君は既に子供ができ葉子の尻の下に惹かれて、子守りと炊事を一緒にやらされて参っていた……。

というような内容で、今日でも、隣国で核爆弾が出来たと、周囲の国を脅している状況を見ると、十分通用する作品である。昔の漫画だと笑ってはいられない。こういう所が手塚の成人漫画の特色なのだ。

成人漫画の方が活気がる

この年、昭和38年には2作短編を掲載、40年にはどういうわけか、「大日本帝国アメリカ県」という作品一作のみで終わった。これは手塚以外には考えつかない発想の作品だが、あまり成功作とは言えない。いずれ紹介するチャンスもあろう。

昭和41年には、遠山泰彦という新人が編集部に入り、手塚を専門に担当することになった。それから順調に手塚作品を頂戴できるようになった。

例えば「品川心中」という短編がある。これはその頃大変評判になった川島雄三監督の映画「幕末太陽伝」のパロデーである。「幕末太陽伝」そのものが、「品川心中」「野ざらし」「居残り佐平治」などの落語のパロデーであって、石原裕次郎などのスターのほか、フランキー堺や小沢昭一が大活躍する映画だが、それをさらにパロって、人間の機能をすっかり身に着けたはずのロボットが、少しも笑ってくれないという漫画だ。やはり聴衆をロボットにするあたり、手塚の世界である。

そのころから、手塚は一層、成人漫画に熱意を持ったようだ。手塚は

「長い間純粋なおとな漫画を提供しつづけたのが、実業之日本社から出ている「漫画サンデー」と、文芸春秋社の月刊誌「漫画読本」でした。中略

ぼくは、この二つの雑誌とも長い付き合いでした。ただ物語を映画的に展開しただけの劇画やストーリー漫画に、物足らなさや心細さを感じていましたから、漫画本来のユーモアやオチのおもしろさを、、これらの大人の漫画雑誌に書くことで勉強しよう思いました。

ときによっては編集者に、『手塚さんは、どちらかというと、おとな漫画の方が生き生きとして活気があるように見える』と言われたことがあります。ある程度のおとなっぽさと、思い切り風刺や皮肉をかきまくることが、ぼくにとってカタルシス(気分晴らし)になっていたことは事実です」(手塚治虫漫画全集 「すっぽん物語」あとがき)

と述べている。

この言葉は、漫画サンデーに書き始め、やがて、漫画集団に加入し、大勢の先輩、同僚との交流を深めたころの感懐であろう。

シチュエイション・コミックの理論

「人間ども集れ」の主人公 天下太平
「人間ども集れ」の主人公 天下太平

手塚のこういう気分が盛んになったころ、

私は長編大河漫画の連載を約束した。手塚担当の遠山に来年1月(昭和42年)から、手塚の長編連載を始めることを打ち明け、それが始まるまで、何篇かの読み切りを掲載することを命じた。

私の記憶を確かめるために遠山に会い、その当時の様子を聞いた。

「入社した時に、峯島さんから至上命令として、来年1月から手塚さんの長編漫画をとることといわれました。それまでに読み切りを何本かとること、四回連載ぐらいの中編を書いて、長編を描く予行演習とすると。 そのために書いて貰ったのが、「タダノブ」という作品です」

「タダノブ」は12月中の四回連載であった。その内容はあとで述べることにして、翌年1月25日号から始まったのが、おとな漫画の傑作とされる「人間ども集まれ」である。その翌年の7月24日号まで、65回にわたって続いた、実質七〇〇頁に近い大河漫画となった。

第一回の原稿は大阪に出張した、手塚に遠山がついて行き、遠山は手塚の隣の部屋に泊まった。最初は同じ部屋で、先生の仕事ぶりを見ていたが、それを遠山が手塚の手元を時々覗くので「朝まで描きあげるから君は寝てください」

と追い出された。その時、手塚の執筆時の癖である足を貧乏ゆすりをしていたが、遠山を追い払うように激しく足をゆすった、という。遠山が目を覚ました時には、既に先生は出発した後で、入り口のドアに一〇頁分の原稿が差し込んであったという。神出鬼没と原稿書きの速さを謳われた、手塚らしい話ではある。

遠山は早速原稿を見て、「これはすごい」と思わず声に出すほどの、おとな漫画ならではのすごい描写であった。山深いところに起立する岩山、そこで弱虫の脱走兵、天下太平が、命がけで、監視の正規兵をさし殺す場面からはじまっていた。

次の頁では見開きいっぱいに、山あいの草原すべてに脱走兵の死骸が転がり、死骸をカラスがつついている、太平その間を逃げてゆくと、ウサギ狩りの如く,ヘリコプターの掃射を受ける。やっと逃げ込んだと穴倉に、これも脱走軍医、大友黒主という大悪人がいた……。

そこは東南アジアにある独裁国パイパニアで、目下戦争中で、日本の自衛隊からも韓国、中国の軍隊からも義勇軍として、兵を送られているのだが、脱走兵がたえなという設定になっている。このぼんくらの脱走兵、天下太平を主人公に、壮大な物語が展開するわけである。

話はマンガの内容から離れるが、手塚は漫画の描き方について二つの道を考えていた。それについて、全集の「フースケ」のあとがきで、次のように述べている。少し長いが手塚の漫画作法がよく分るので、紹介させていただく。とくにこの「人間ども集まれ」を理解する上に、必用だと思われるので、ほとんど全文を紹介する。

「ふるくは『サザエさん』『轟先生』から『フジ三太郎』『キザッペ』『赤兵衛』『ショージ君』『ドタコン』これらの漫画の主人公たちをみると、じつに個性にあふれて、人間味ゆたかで、クセがあってアウトサイダー的である。

市井の一般庶民を任じて、管理社会のメカニズムにとびこんでいく。

このパターンはふつうユウモア漫画、ナンセンス漫画と呼ばれているものの、一番オーソドックスなかたちだ。

もう一つ、ちがったパターンがある。『ギャートルズ』の世界がそれだ。『ギャートルズ』は、舞台が原始時代で、文明のカケラもない、見渡す限り太平原の世界だ。地平線漫画と、作者の園山センセイが名づけた。

この漫画には、設定そのものの特殊性がある。舞台や状況に手玉にとられて、アタフタしてしまう。そのチグハグな、不条理な心情がおもしろさの骨頂だ。

中略

園山さんは、こういったパターンの漫画にすごい傑作がある。そして、ボクも、描くマンガの大半は、この設定優先の物語が多い。

ボクは、こういう種類のものを、シチュエーション・コミックと名づけている。

シチュエーション・コミックの主人公は、ボンクラで、ピエロで、グータラで、あたりまえの人間がいい。ちょっぴりぬけていて、なにかわけのわからないことがおきたら、オタオタ、ウロウロ、オロオロするような人物がいい。これが、設定といっしょに、いかにもしたり顔でどうこうするヤツだと、読者は設定と主人公におきざりにされちまう。まあ、はっきりいうと、シチュエイションそのものがおもしろければ主人公は狂言まわしで、説明役にすぎなくたっていいのである。」(手束治虫漫画全集「フースケ」あとがき)

「人間ども集まれ」の主人公天下太平なる人物も、ここに手塚が言うシチュエイション・コミックの主人公の典型的な人物である。ボンクラで、ピエロで、グータラデ、何かあると、オタオタ、ウロウロ、オロオロするばかりなのだが、恐ろしい戦争下の独裁国の脱走兵として、うろちょろしている間に、とんでもない役割を押し付けられ、そのために世界が急展開してゆくというのが、この大長編漫画の行き先である。さて天下太平いずこに行く。

(続く)

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