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“2月7日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1184=元暦元年、源平争乱の「一の谷の合戦」で平家の敗走が始まった。
*1943=昭和18年、太平洋戦争の「ガダルカナル戦」で日本軍が敗退した。
*1965=昭和40年、ベトナム戦争で米軍機による「北爆」が始まった。

こう並べてみるとこの日は戦乱や戦争のエポックになった日である。「一の谷の合戦」では源義経の鵯越(ひよどりごえ)の逆落しの奇襲により一門の多くを失った平家は讃岐屋島でふたたび大敗し、最後の決戦となった壇ノ浦へと敗走を重ねていく。

ガダルカナル戦は西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を巡る前年8月7日からの一連の戦闘をいう。島への上陸作戦から始まり2度の総攻撃から撤退までに日本軍が2万2千5百人、連合国軍は6千9百人が戦死した。まさに大敗だったが大本営は「ソロモン諸島のガダルカナル島に作戦中の部隊は、昨年8月以降、引き続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、戦闘敢闘よく敵戦力を撃摧(げきさい)しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬、同島を撤し、他に転進せしめたり」と発表、はじめて<転進>の名のもとに退却の事実を認めて公表した。「転進はきわめて整斉確実に行われ、新作戦遂行の基礎は確立した」と報じられたがもはや敗戦の現実は覆うべくもなかった。

ガダルカナル島の日本軍は敵と戦い、ジャングルと戦い、疫病と飢餓と戦った。別名<餓島>。現地では次のような生命判断がなされていた。立てる者=30日、起きられない者=1週間、しゃべれなくなった者=2日間、まばたきしなくなった者=明日。連合艦隊司令長官山本五十六が戦死するのはガダルカナルからの敗退70日後の4月18日だった。

いちばん記憶に新しい「北爆」のほうはアメリカがベトナム民主共和国(北ベトナム)との戦争を開始した日とされる。3月、海兵隊ダナン上陸、翌年4月にはB-52によるさらなる北爆・・・・・北爆は1973年3月のアメリカ軍のベトナムからの撤退まで続いた。いまだにばらまかれた枯葉剤による後遺症に苦しむ多くの人々がいる。

たまたまこの日を戦乱や戦争のエポックになった日であると紹介したが1年365日、閏年も入れれば366日、同じように歴史上では<戦乱や戦争にまつわる日>ばかりである。ここで戦争についてあれこれ論を展開する気はさらさらないが世界規模でみれば平和は戦争に至るわずかばかりの間というよりはそのための準備期間に過ぎないとも思える。

*1981=昭和56年  日露和親条約の締結を記念して「北方領土の日」に制定された。

条約が締結されたのは1855=安政2年のこの日、伊豆・下田で江戸幕府の全権・大目付・筒井政憲と勘定奉行・川路聖謨(としあきら)、ロシア側全権・プチャーチンとの間での「日本國魯西亜國通好條約」をいう。

条約では千島列島における日本とロシアの国境を択捉(エトロフ)島とその北にある得撫(ウルップ)島の間とすることを決めた。さらにロシア船の補給のため箱館=函館、下田、長崎の3港に寄港を許す「条約港」にすることやロシア領事を日本に駐在させることなどを決めたが樺太の国境交渉は進展がなかった。日本側は「北緯50度で分ける」という案を出したもののまとまらなかった。当時の樺太奥地へは探検家が入った程度であり、川路も老中にあてた手紙に「不毛の樺太を捨てても一向に差し障りがない」という考えを述べているから熱が入らなかったか。

魯西亜はもちろんロシアと読むが「北方4島とは」と聞かれて答えられない人や国後、択捉、歯舞、色丹もルビなしでは読めない若者が多くなった。

*1873=明治6年  明治政府が「仇討ち」を禁止した。

江戸時代には記録に残っているだけで114件の仇討ちがあったとされる。仇討ちは武士に公認されていただけでなく義務で使命でもあったから果たさなければ浪人となる恐れもあった。ところが「四民平等」が政府の基本方針となった明治には厳しい主従関係のもとでの仇討ちはそれと矛盾することになる。一部に「復讐は孝行の延長にあるから一律禁止はいかがなものか」という根強い反対意見もあったものの最終的には禁止と決まった。この日の太政官布告第37号で「父祖被欧律ヲ改正シ厳ニ復讐ヲ禁ス。其至親害ニ逢フ者ハ、具状上告セシム」と通達された。さらに1867=明治9年3月28日の布告によって刀を差すことも禁じられた。

ところが1867=明治13年12月17日に禁じられたはずの<仇討ち>が起きた。

旧福岡秋月藩士臼井六郎が同じ秋月出身で東京上等裁判所判事の一ノ瀬直久を格闘のうえ斬り殺した。臼井の父で秋月藩の家老の要職にあった亘理(もとただ)は藩主に「開明の要」を説いたことが藩の守旧派の反感を買い、1868=慶応4年5月24日早朝、京都で一ノ瀬ら藩内の尊皇攘夷派「干城隊」に妻ともども暗殺されてしまう。六郎は周囲の反対を押し切り、一ノ瀬を追い続けていた。自首した六郎だったが仇討ちが許されるはずもなく福岡県士族だったことで謀殺罪が適用されて終身禁獄の判決を受けた。

裁判ではまったく勘案されなかったが「わが国最後の仇討ち」として歴史に名を残した。

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