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書斎の漂着本  (13) 蚤野久蔵 國初聖蹟歌

昭和16年(1941)の「皇紀二千六百年」を記念して京都市左京区泉川町の甲鳥書林から出版された川田順の『國初聖蹟歌』である。

國初聖蹟歌

昭和11年に住友総本社の常務理事までのぼり詰めながら歌人へ転身して話題を集めた川田は、東京・城北中学時代の17歳で才能を認められ佐佐木信綱に入門した。東京帝大在学中には後に劇作家となる小山内薫らと文壇初の文芸雑誌『七人』を創刊し、住友在職中も詩集や歌集を多く出している。経済界を退いてからはそれまでの新古今集研究に加えて西行や源実朝、吉野朝(南朝)歌人、良寛などの研究にも力を入れた。國初聖蹟とは日本書紀や古事記に書かれた「天孫降臨の神話にちなむ聖地」のことで歌集の題名で初めて自らの<立ち位置>を明確にしたことで知られる。

なぜこんな歌集を手に入れたのかというと「蚤の目大歴史366日」の資料用で、使いたかったのは12月4日のところ。昭和23年、64歳の川田は再び話題になる。自殺未遂を起こしたことで朝日新聞に「老いらくの恋は恐れず」「相手は元教授夫人・歌にも悩み川田順氏」の大見出しで報じられる。<ああ、あの>とうろ覚えのまま古書店で『國初聖蹟歌』と2年後に同じ甲鳥書林から出た『史歌南北作戦』があったので購入した。ところがスキャンダルと騒がれたのは戦後で、結末は正式入籍で<添い遂げた>こともあって取りやめた。

『國初聖蹟歌』に戻る。川田は14年12月に和子夫人を伴い鹿児島、宮崎へ列車での車中2泊を含む10泊11日の探訪旅行に出かけた。旅行記と併せて歌を詠むのと3年前にひとりで来て感動した南九州の海や山を夫人にも見せてやりたいというのが動機だった。

「申すまでもなく、旅行は軽装にかぎる。僕は冬の背広に、合外套を着て、手には荷物も持たない。和子は矢がすりの袷の御召、黒地に竪縞のある山繭の羽織、赤味がかった錆色の地に波の模様の出た山繭の長コート、ねずみ色の肩掛、ハンドバックと洋傘、キルクの草履。荷物は二人でスート・ケース一箇」

最初のほうはまるでファッション雑誌のよう。スート・ケースは、もちろんスーツ・ケースで、今のような車輪付きではないから歌人が持ったのだろう。駅や旅館には新聞社などが手配した迎えの車が来ていたとあるから大した苦労はなかったか。3日夜遅く神戸駅を急行で発ち、西鹿児島駅には夕方5時に到着した。正確な時間は書いていないが途中で乗り換えたはず、と、ここで気付いたのが関門海峡トンネルはまだ開通していなかった。戦時体制下での輸送力増強を目ざす突貫工事でまず下り線がようやく完成して試運転が開始されたのが昭和17年6月、旅客営業が始まったのは5カ月後の11月15日の全国ダイヤ改正からだった。

昭和13年版の『旅程と費用概算』(社団法人日本旅行協会)には

門司市(要塞都市):九州の最北端に位し、海峡を隔て下関と相対し瀬戸内海及九州の喉を扼する重要の海門である。対岸下関との間は鉄道省の連絡船が頻繁に往来しているが、ここ数年のうちには海底トンネルにより連絡される予定である。連絡船で15分(2浬=海里=約3.7キロ)賃10銭(三等室のみ)。

ならば乗り換えなどではやはり歌人の<ひと働き>もあったろう。

鹿児島市:門司から鹿児島本線経由急行で8時間5分(400キロ)。

ざっと計算しても前夜からはほぼ20時間の長旅。終点の西鹿児島駅には鹿児島朝日新聞幹部の知人が写真部の人(カメラマン)を連れて出迎え、案内された岩崎谷荘という<広壮な>旅館に入った。広壮なというからには、と次ページの【旅館】トップに㋴岩崎谷荘:和室24、洋室3、一泊3円―5円。㋴は索引に「日本旅行協会の発売する旅館券の1泊2食附の料金を示す」とあり納得した。

晩餐後は朝日新聞の幹部氏らに加え歴史家で歌人の人物、県立図書館長、県庁の公園主事などが訪ねてきて盛り上がった。図書館長が桜島の噴火の歴史を講義してくれて「奥さん、大丈夫ですよ。当分は静かです」と請けあったので、夫人も安心した顔つきになった。

翌日は二人だけで市内見物を楽しんだ。城山公園、照国神社、歴史館を見て山形屋百貨店で昼食、午後は磯公園尚古集成館、市内に戻って加治屋町をぶらぶら歩きながら南洲翁(西郷隆盛)私学校址から南洲翁墓地のある浄光明寺に回り、そばの茶店で休んだ。川田はここでも延々と夫人に歴史の「おさらい」を聞かせたが、夫人の感想は、城山公園の谷のミカン畑が黄色く実をつけていたのを葉付きのまま大阪の友人に送ってあげたら喜びそう、というのと磯公園やそばの民家の垣根にも可愛いきんかんの実がたくさん生っていたこと、店頭のかるかん饅頭がうまそうだったこと、大島紬が案外安くなかったことだという。

同じ旅館でもう1泊、翌日は夫妻の鹿児島来訪を新聞で見たという息子の友人が朝から訪ねてきて歓談、迎えが来たので鹿児島駅発午前9時30分の列車で伊集院へ。ここで南薩鉄道重役とこれから向かう村の助役が出迎えて一緒に乗車、途中、地元の旧家で昼食のもてなしを受け、先祖の活躍の話を拝聴、そこの自家用車2台で神話の笠沙之御前(かささのみさき)に比定される薩摩半島の野間岬を見て午後4時に旅館に着いた。休む間もありませんなあ。

ここでも差し入れの「目の下2尺」の赤鯛料理も加わってにぎやかな晩餐会、興奮した歌人はなかなか寝付かれず、3時には一番鶏が鳴いて目が冴えてしまい、2首をものにした。朝食をとりながら一行と歌談義、歌人ではない夫人もうなずくなりして当然ながらそれに付き合ったのだろう。午前9時に迎えの車が来て指宿温泉に向かう・・・・と行程に沿って紀行はこまめに続く。もちろん訪れる先々で会食は当然のこと夜毎の歓待を受けた。

霧島では高千穂岳中腹にある霧島古宮阯まで夫婦で登っている。そこで「まるで旧婚旅行だね」夫人の耳元でささやいたというのがこの1首。

高千穂の巌の神岳吾が妻も足は萎ゆとも攀ぢむとぞ言ふ

巌(いづ)、神岳(かむたけ)、萎(な)ゆ、攀(よ)ぢとルビがふってあるが、足は萎ゆを「健脚でもないのに」と解すると、そこまでしてついてきてくれたという<おのろけ>に聞こえなくもない。下山後、霧島神宮の神官から、お疲れになったのではと聞かれた夫人が「私より主人のほうが、時々、妙な足つきをして弱ったらしいのですよ」と返事しているのを<すっぱ抜かれた>と書いているが、夫婦ともかなり疲れていたのだろう。

宮崎ではさらに2泊、東京帝大の同級で住友総本社で机を並べたこともある商工会議所会頭、宮崎バスの岩切章太郎社長がわざわざ出迎えてくれた。さすがに宿は岩切社長手配の一流旅館だったが競馬の客で混雑していたとある。翌日は宮崎神宮、青島、鵜戸神宮を同社の観光バスで回り、夜は岩切社長、市会議長による宴席、翌日は早朝から西都原古墳群・・・宮崎駅を発ったのは12日午後1時25分発門司行き急行列車で、日豊本線、連絡船、山陽本線と乗り継いで翌13日午前9時にようやく神戸御影の自邸「山海居」に帰った。

70ページに及ぶ紀行文は、簡潔に「六甲山晴れて、庭の山茶花(サザンカ)紅」の1行で終わるが最初の訪問地・鹿児島市での

今日を来て一箇月前に桜島が灰降らせたる街に宿りぬ

からはじまる計111首のなかには

皇紀二千六百年をまのあたりにこの村の兵も征きて戦ふ

隼人の薩摩男子が海越えて征きしは歴史に幾たびならむ

など時局をきっちりと詠み込んでいるのは「愛国歌人」と呼ばれる証左でもある。

「山海居」は、大正11年(1922)4月に神戸の住友製鋼所支配人として赴任した川田が、長兄鷹の4男周雄(ちかお)を養子に迎え、親子3人で暮らすために新築した。当時は武庫郡御影(みかげ)町だったが、現在は神戸市東灘区で芦屋などに並ぶ有数の高級住宅地である。関東大震災の前月8月に完成、大阪毎日新聞学芸部長で詩人の薄田泣菫が命名した。

お手伝いさんもいただろうから久しぶりの自邸は旅の疲れをいやしてくれるはずだったが、紹介するこちらがあきれるほどの強行軍の南九州歴訪の旅は思わぬ影響を及ぼす。最後の1行に続けてこう報告される。

この旅行から帰宅して二週間目に和子は突然脳溢血で倒れ、神明の加護なるべし、安らかに眠りながらこの世を去った。旅行中に不思議なことが一つあった。それは、鹿児島市に到着した晩から、御影の宅に帰来する迄、僕は全く酒を飲まなかったという事である。(鹿児島神宮及び霧島神宮の拝殿にて頂戴した神酒は別として)。敢えて禁酒したのではなく、不思議と一滴も飲みたくなかったのであった。僕が和子の生前に心配を掛けた事があったとすれば、それは折々麦酒を飲み過ぎたことであった。神明が、和子を庇護して、僕の酒を封じさせ給うたのであろう。

なるほど、神明ですか。旅した両県が<乾杯から焼酎のお国柄>などと余分なことは言わないでおこう。

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