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“12月21日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1877=明治10年  来日したグラハム・ベルが宮内省で自身が発明した電話を実演した。

ベルは工部省の招きで日本へやってきた。この日、並みいるお歴々を前にベルはオゴソカに受話器を取り上げると別室のメンバーと英語で通話してみせた。実験成功の直後、東京音楽学校の校長になる伊沢修二と留学生仲間でのちに司法大臣になる金子堅太郎がその電話で会話した。これは日本語だったから英語に続いて世界2番目に通話に使われた言語となった。

工部省は「これは便利」と早速同じものを<複製>して各官庁間に設置した。ところが電話を使う習慣がまったくなかったから<子供の糸電話と同じ>とからかわれ、電話をかけるよりも出かけた方がよほど早いと敬遠された。それが12年後の1889=明治22年には東京―熱海間に公衆電話が開設され、翌年には東京と横浜で電話交換業務が始まった。ようやく電話の便利さが認知されて庶民向けのサービスが始まったわけだ。

*1958年  公的生活を引退していたド・ゴールが行き詰った政治を打開するために再登板した。

政争に明け暮れる政党政治と議会主義への不満から突然の首相辞任、引退宣言から12年目だった。ド・ゴールの引退後も政府が小党乱立で機能不全は変わらず、アルジェリア独立運動にも有効な手が打てなかった。進退きわまった政府は軍部を抑えることのできる人物としてド・ゴールに出馬を要請した。

6月に首相に就任したド・ゴールはアルジェリアの反乱を鎮圧した。9月の大統領国民投票では圧勝して大統領に強権を与える新憲法を制定してフランス第五共和政が成立すると初代の大統領に就任した。以後1969年に退陣するまでの11年間、強圧的と言われながらも内外政策を強力に推し進めた。巧みな経済政策でフランスは高度経済成長を遂げるとともに外交面でも国の地位を高めた。

東西両陣営の冷戦が続くなかでアメリカとソ連という超大国とは別に、ヨーロッパ諸国による「第三の極」を作るべきだという意識を持っていた。その中心にフランスを据えたいと考えていたことを回想録の中で述べている。NATO本部をフランスから追い出してそこから脱退、国連とは分担金を巡って批判的な態度をとった。独自の考えから断行した核武装にも賛否両論はあるが「わが道を行く姿勢」と「確固たる美学」をあらゆる局面で貫いた。

79歳で没。遺言書には「葬儀は家族だけで」と書いたが国の要請で盛大な国葬が行われた。その後も「シャルル・ド・ゴール国際空港」や原子力空母「シャルル・ド・ゴール」、パリ市内には「シャルル・ド・ゴール広場」、セーヌ川の橋や薔薇の名前にまでその名前が冠された。フランス語圏の多くの国の通りや施設などにも命名されている。

「人はなろうとした人物にしかなれない。必ずしも良い条件に恵まれるわけではないが、偉大になろうと決意して初めて偉大な人間になれる」というのが残した言葉のひとつだ。

*1850=嘉永3年  国定忠治が上州(群馬)大戸で賭博、殺人、関所破りなどで磔になった。

上州国定村出身で長岡忠次郎が本名。1828=文政11年、19歳のときに賭博に手を出し博徒になったが揉め事から島村の伊三郎を斬り殺して信州方面に逃げた。その後は赤城山などで賭場を開帳し縄張り争いから別の博徒を殺し、関所を破って再び信州に逃げた。

忠治が妾宅において脳溢血で倒れたのは1850=嘉永3年の7月21日で41歳だった。困り果てた妾は本妻に連絡したが引き取りを断られたため山林に小屋掛けして養生をさせることにした。ところがそれまで小遣いを与えていた岡っ引きに内通されて御用になった。

首は3日間さらされたあと「お取り捨て」になったが妾のひとりが忠治の片腕を拾い伊勢崎市の養寿寺に葬った。戒名は長岡院法誉花楽居士。墓石を煎じて飲むと賭けごとに強くなるという噂が立ち多くの人が墓石を削り取ったため明治時代に造られた墓石は角をなくした円筒形にして厳重に鉄柵で囲われている。遺品館もあり<忠治寺>として名高い。

ところで「赤城の山も今夜の限り、生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て、可愛い乾(子)分の手前たちともわかれわかれになる首途(かどで)だ」の名台詞で知られる『国定忠治』は1919=大正8年に沢田正二郎によって初演され新国劇の十八番となった。こちらは主役だからなかなかの男前の役者が演じるが、関所破りの際の手配の人相書には「国定村無宿、忠次郎寅三十歳余。中丈、殊ノ外太リ、顔丸ク、鼻筋通リ、色白キ方、髪大タブサ、眉毛濃ク其ノ外常体角力取リ体ニ相見候」とある。つまりずんぐりむっくりで相撲取りのように太って眉毛が濃い男だったとされる。

天保飢饉で農民を救ったなどといわれるが、単なる大泥棒だったとか手のつけられない侠客に過ぎなかったとか評価はさまざま。「実録」はなかなか厳しいのである。

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