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“4月16日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1877=明治10年  「少年よ、大志を抱け」で知られるクラーク博士が札幌農学校を去った。

博士は北海道大学の前身・札幌農学校の初代教頭として49歳で着任した。米マサチューセッツ出身で母校アマースト大で教授をしていた当時の初の日本人学生がのちに同志社英学校を創設した新島襄で、来日は新島の紹介で日本政府が熱烈に要請したからだった。当時、マサチューセッツ農科大学の学長をしていたが1年間の休暇を利用して札幌にやってきた。船便での往復だったから日本での滞在は8か月しかできなかったものの専門の植物学だけでなく、自然科学一般を教えた。熱心なクリスチャンでもあったから学生たちに聖書を配りキリスト教についても講じた。

別れの場面。クラークは教え子たちに「葉書の一枚でいいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。ではいよいよお別れだ、元気で暮らしなさい」とひとりひとりと握手し終わると、ヒラリと馬にまたがり「Boys, be ambitious!」というなり馬に鞭をくれて雪泥を蹴って林の彼方に姿を消した。なんだか西部劇『シェーン』の最後のシーンみたいですなあ。

ところでこの「少年よ、大志を抱け」はもっと長く、「青年よ、金、利己、はかなき名声を求むるの野心を燃やすことなく、人間の本文を成すべく大望を抱け」だったとか。クラークの創作ではなく、彼の出身地・ニューイングランド地方でよく使われていた別れのあいさつで<じゃ、元気で!>くらいの意だったとも。でもやはり前途ある教え子たちに向けてだから「少年よ、大志を抱け!」がぴったりだけど。

*1397=応永4年  足利義満が造営した「金閣舎利殿」の立柱上棟式が盛大に営まれた。

京都・北山に造営した北山第の一角、池に臨んだ現在の金閣の場所だ。初層と二層が寝殿造り、三層が禅宗様式で二・三層とも壁や天井に金箔でまばゆいばかりに荘厳されたが、建物だけでなく天皇の行幸を仰ぐために金銀の造花がまき散らされたと伝わる。

<西方極楽もかなふべからず>と嘆賞された壮麗な邸宅は「つまり義満という人のありようを物語っている」と『金閣炎上』を書いた作家・水上勉は評している。それは引退したとはいうもののそれは名ばかりで晩年は天皇位も欲しがったことも含めてだろうか。

*1906=明治39年  東海道線のダイヤ改正ではじめて「最急行」が誕生した。

新橋駅~神戸駅間で運行された「最高急行1・2列車」で、運賃以外にはじめて<速達サービス>の料金を徴収することになった。午前8時に新橋を出発、夜9時40分に神戸着で14時間近くかかった。料金14円39銭のうち1円50銭が<急行料>という内訳だった。

特別急行=特急が登場するのは1912=明治45年にこの列車を下関駅まで延長して関釜連絡船経由で中国・欧州までを結ぶ国際連絡運輸の一翼を担う「大陸連絡列車」としてから。国威発揚という別の役割もあったわけです。

*1949=昭和24年  「八百長疑惑」に端を発した大阪住之江競輪場騒擾事件が起きた。

堺市営競輪2日目第6レースで本命選手が出遅れ、その後も巻き返す努力やスパートもせず最下位になった。体調の急変や自転車の故障もなかったから観客は納得せず大騒動に発展した。鎮圧に警官隊も出動したが結局、はずれ車券も払い戻すことでようやく収まった。これが競輪八百長事件の第1号。その後、<疑惑のレース>のたびに同じような騒ぎが各地の競輪場で頻発した。

住之江競輪場は小倉に続いて戦後2番目に開設された競輪場だった。現在の日本選手権競輪にあたる「全国争覇競輪」なども開催されてにぎわったが周辺の交通混雑などで移転されることになった。しかし移転先が見つからず64年に休止されたまま廃止になり跡地は住之江公園の児童広場などになった。つわものどもの夢のあとというには侘しい。

*1614=慶長19年  徳川家康のクレームを引き起こす京都・方広寺の鐘が鋳造された。

方広寺は豊臣秀吉が創建した。大仏殿が威容を誇ったがその後焼失したため子の秀頼が再建に取り組んでいた。問題とされた鐘の銘は「国家安康」「君臣豊楽」だったがこれが家康の名を<引き裂き>豊臣家を讃えるものとして難癖をつけた。これが後の「大坂の陣」の原因になったとされる「方広寺鐘銘事件」である。

それにしても「こんな銘を入れるとはとんでもない問題でっせ」と誰かが<ご注進>したわけだから油断もスキもありませんなあ。いや、その人物が関西弁だったかどうかはわかりませんけど。

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