1. HOME
  2. ブログ
  3. “11月8日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“11月8日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1519年  スペイン人エルナン・コルテスは少数の部下を連れてアステカ王国の首都に入城した。

コルテスは侵略を繰り返す「コンキスタドール=征服者」だった。兵士500人、馬16頭を積んだ帆船十数隻でメキシコ湾岸沿いに進み、漂着して住みついていたスペイン人を案内役として内陸部に進んだ。アステカ王国はユカタン半島のメキシコ高原一帯を長く支配して「アステカ文明」を築いてきたが白人のコルテスはインディオたちに「白い神=ケツァルコアトルの化身」と勘違いされたことで難なく首都に入ることができた。

迎えたアステカ王モクテスマ2世にも「預かっていた国をお返しします」と城内を6日間にわたって案内してもらったことで防衛体制のすべてを把握した。いったん首都を出たコルテスは待たせていた軍を率いて攻め込んだがこのときは圧政に立ちあがったアステカ人の暴動に巻き込まれて1,000人以上が殺されてようやく逃げ出した。

ところがこのときにスペイン人たちが残したのは天然痘だった。暴動で殺されたモクテスマ2世に代わった新王もわずか80日で天然痘に倒れ、代わった王も3ヶ月の攻防の末にコルテス軍に敗れた。王国はその後、スペイン人たちが虐殺と破壊の限りをつくしたことで滅亡した。スペインの聖職者ラス・カサスはコンキスタドールたちを「数限りない民族を殺戮殲滅し他人の領土を横領した人間」として断罪する。もちろん真っ先に挙げたのはコルテスに他ならない。

*1213=建保元年  藤原定家は将軍源実朝に藤原家相伝の秘本『万葉集』の一部を贈った。

これは定家の日記『明月記』に記されているが『万葉集』は東海道を鎌倉へと運ばれた。実朝は15日後の23日にこれを手にしたことが『吾妻鏡』に残る。新古今集の選者だった定家からの思いがけないプレゼントに当時22歳の多感な文学青年・実朝が心ときめかしたことは間違いない。

定家は実朝が『万葉集』に関心があることをちゃんと知っていた。だからこそのプレゼントだった。時の権力者への贈り物だから当然、したたかな計算あってのことだろうがそんなものが代々、蔵に伝わっているというのもすごいことではある。

*1942年  第二次世界大戦下、アイゼンハワーが指揮する米英部隊がアルジェリアに進攻した。

アフリカをトーチ=松明に見立てその先端に火をつける「トーチ作戦」と呼ばれる。アフリカに展開していたドイツ軍を抑える作戦で艦船約850隻、兵14万人でこの日午前1時を期してアルジェリアのアルジェと西側のオランへ地中海側から上陸した。さらにモロッコへは大西洋側から3カ所に一斉上陸する作戦をとった。

北アフリカはフランスの植民地だったがそれらはいずれもドイツによる<傀儡政権>だったのでいったんは攻撃の対象とされたが早い時期に制圧された。連合軍側が最終的に追い詰めようとしたのはリビアに展開していたドイツのロンメル司令官らの精鋭部隊で戦車戦に卓越していたので「砂漠の鬼将軍」と呼ばれていた。

連合軍は地中海を完全に指揮下に置くことはドイツに侵攻されたフランスなどを取り戻すための前段階と考えた。半年間にわたる砂漠の戦闘の舞台になったのはチェニジアで補給に勝る連合軍側がドイツ軍をようやく敗北に追い込んだ。

イギリスのチャーチル首相は「これは戦の終わりではない。それは終りの始まりでさえない。しかし始まりの終りであろう」の名言を残した。それほど失ったものが多かったということでもあった。

*1881=明治14年  <演説見習い>のため大阪へ子弟を留学させるのが流行した。

このころ都会で流行した「政治演説会」が地方都市でも大流行し、岡山県玉島の豪商3人がその子息を大阪に出して演説の修業をさせたということが話題になった。子息たちが帰省して演説をぶつとこれが思いのほか好評だったので親たちは「家の名誉である」とさらに学費を持たせて大阪に戻した。近郷近在でも見習う者が増えたことが「東京日日」に紹介されている。

演説見習いというからには演説上手な人からやりかたを伝授してもらうのだろうが、そうなると関西弁というか大阪弁ですよね。修業すればするほど<大阪なまり>になっていっただろうからそこらあたりはどうだったのか。ともあれ人前で演説することに慣れて親たちを感激させたわけだから大阪には演説の専門家がいたわけだ。

大阪、政治、演説、修業・・・と並べてみると何やらいまの<流行>の先駆けのような気がしないでもない。

関連記事