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書斎の漂着本(86) 蚤野久蔵 二笑亭綺譚(2)

渡辺金蔵が「二笑亭」の建築に取りかかったのは昭和2年(1927)である。建築家の藤森照信が『二笑亭綺譚-50年目の再訪記』で金蔵の四男・豊氏を突きとめ、詳しく取材して渡辺家に残されていた当時の家計簿で裏付けた。「十二月十五日 金九円、仲一払」。仲一は「二笑亭」の建築作業を一手に引き受けた大工の棟梁で、この月に石材店や石屋への出費が多くなる。おそらくこの時期に基礎工事が始まり翌3年になると「レール400貫」、「セメント10袋」、「材木」を始め資材の購入が活発化し、仲一や「鍛冶」、「挽」といった職人の動きも盛んになる。「挽」は木挽きのことで、二笑亭建築のための用材は木場から丸太を買い付け、敷地内で挽かせていたという豊氏の証言とも合っていた。

こうした取材と同時進行で藤森らの依頼で50分の1の模型が作られた。残された写真などから3カ月以上かけて作った模型師の岸武臣と藤森の対談も収録されている。岸は制作の過程で金蔵があらゆるところに<非対称>を構成しようとしたことに気付いたという。それは天井も壁もすべてに及んだ。逆に非対称なものは対称にしようとしたという。裏門近くに置いてあった狛犬は両方口を閉じている。「あ・うん」ではなく「うん・うん」の組み合わせ、そうすることによってバランスをとる。別名の「天秤堂」も前後が別々の重さをうまく担ぐ道具だから気に入っていた。一方の二笑亭は「二を笑う」と考えればおもしろい。偶数の最小単位は「二」で「一」と「一」に振り分けられるけど、それを<よし>としていない。建物全体が「非対称解明装置」になっているのがわかったと興味深い発見を語っている。

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これが二笑亭の模型。前回紹介した表玄関の写真は左側から写されたものだから、玄関を入ってホールがある建物を抜けると中央の母屋と茶室に続く。その奥、中庭の右が倉庫になる。敷地約316㎡に対し建坪約220平方メートルの木造2階建て、物置と倉庫は鉄骨造りだった。二笑亭のほうは3年がかりで建築され、金蔵が6年ほど住み、手直しを続けた。その後は金蔵が病院に入院させられたので無人で、精神病理学者の式場隆三郎が訪問しておもしろおかしく紹介したことから広く知られることになったものの<未完>のまま、昭和13年4月に取り壊された。

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式場が二笑亭を見学したときの写真である。どんな人物だったかを簡単に紹介しておこう。1898年(明治31年)新潟県生まれ、静岡脳病院院長などを経て千葉県市川市に精神病院の式場病院を設立した。雑誌『ホトトギス』を愛読して文芸の世界にあこがれ、白樺派の作家や民芸運動の柳宗悦、バーナード・リーチらと親交をもった。精神科医としてはゴッホやロートレックに関する多くの著書がある。画家の山下清の才能を早くから見出して活動を物心両面から支えたことや「二笑亭」についての著作で知られる。三島由紀夫とも交友があり、三島が『仮面の告白』における自身の性格・精神の投影を、式場とやりとりしたことで私淑し『サド侯爵夫人』などに式場の著書と同じ題名を借用した。

「二笑亭」を式場が知る発端になったのは「電話事件」である。昭和初期、電話を所有すること自体が珍しく、地位の象徴でもあった。ところが独り暮らしになった金蔵が末広がりで縁起の良いとされた「八番」の電話を東京電話局に無償で返上すると申し出るという前代未聞の「電話事件」が起きた。それまで金蔵が「二笑亭」建築に多くの費用をつぎ込んできたこともあり、心配した家族は財産の散逸を恐れて禁治産の申請をすることになる。鑑定にあたった精神科病院長が式場の知り合いでもあったから家族の許可を得て見学が実現した。同行したのは帝国劇場の設計者で博物館明治村の初代館長になった建築家の谷口吉郎で見取り図は谷口が担当した。

式場は異様な外観から始まって、不思議な間取り、檜の一枚板の節穴にガラスをはめ込んだ壁、五衛門風呂とバスタブのある和洋合体風呂、虫よけ壁がある9畳の間などをこと細かく描写している。虫よけ壁とは黒砂糖と除虫菊の粉末を混合したもので塗り込まれていた。盛夏に襲う蚊や虫を遠ざけようとする金蔵の独創だったというが左官はいつもひどいくしゃみに襲われ、両目から涙をぽろぽろ出して苦しみながら仕事を続けた。他にもいたるところに鉄材を使い、茶室の畳縁まで鉄板が使われていた。

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写真は「節穴にガラス入りの壁」である。式場は『芸術としての二笑亭』の項に「節穴をのぞく心理を想像してみられよ。彼(金蔵)の陰気孤独な性格は、節穴から社会を観察し、人生をのぞいていたにちがいない」と紹介する。さらに「もしラフカディオ・ヘルン(=ハーン)が生きていたら、二笑亭は彼の麗筆によって後世に残る傑作ができたであろう。洋風な匂いを加味してではあるが、日本的な味の濃い二笑亭は、日本的神秘と怪奇を好むヘルンにとって無比のテーマになったに相違ない」とか「一〇余年の情熱を傾けてつくりつつあったこの建築は、浅い模倣や一夜漬けの思いつきで制作される芸術作品の遠く及ばないものがある。グロテスクや、でたらめの構成物としてこれをみる人は、最も浅い理解者である」という訪問記『二笑亭綺譚』を『中央公論』に発表して好評だったので昭和14年2月に昭森社から単行本として刊行した。装本は親交のあった染織工芸家の芹沢銈介。写真40図を添え、学生版も出るなど版を重ねた。なかには50部限定本のように古書業界では稀覯本となっているのもある。次回はもういちど50年目の再訪記に戻ろう。

(以下続く)

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