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“11月9日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1420=応永27年  室町時代の公卿の日記に密柑=ミカンの文字がはじめて登場した。

伏見宮貞成親王の『看聞御記(かんもんぎょき)』で意訳して紹介すると
「九日。晴。将軍・足利義持公から将軍が大好きだという密柑をもらった。なかなか得難いものなので病気見舞いとしては願ってもない。方々に人をやって集めたというがそれだけでは足りなかったので柑子をまぜて進上してくれた」とある。

密柑(みつかん)は甘いミカンで、柑子(かんじ、こうじ)は酸っぱいミカンと思われる。当時のミカンは貴重品だったからもっぱら贈答用に使われていたことがわかる。

伏見宮家は北朝正統の親王家のひとつで貞成(さだふさ)親王はその三代目にあたる。親王自ら33年間にわたり書き続けた『看聞御記』は、宮廷のできごとをはじめ庶民の生活やさまざまな芸能に至るまで幅広く観察した日記として当時の政治や社会生活を知る貴重な文献となっている。病気見舞いの密柑が届いたとき親王は50歳で将軍もわざわざお見舞いを届けたほどの重要人物ではあったが、長男が後花園天皇(第102代)になったものの本人は天皇にはなれなかった。

*1872=明治5年  明治政府がそれまで用いられてきた太陰暦から太陽暦への改暦を発表した。

これにより明治5年12月3日が太陽暦の明治6年1月1日になった。太陰暦では1年が354.4日で約3年に1回、1カ月の「うるう月」が採用されていた。これがある年は1年が13ヵ月で、明治6年はちょうど旧暦のうるう月がある年にあたっていたから13回分支払われるはずだった月給が1回少ない12回になって<ひと悶着>あったそうで。

*1963=昭和38年  三井鉱山の炭塵爆発事故と国鉄東海道線の鶴見事故が同じ日に発生した。

午後3時10分ごろ福岡県大牟田市の三井鉱山三池鉱業所三川鉱で大規模な炭塵爆発が起きた。坑口から約1,500メートル付近の第1斜坑での爆発で一酸化炭素が大量発生して458人が死亡、839人が一酸化炭素中毒になり長く苦しむことになった。<安全神話>を過信し生産第一主義でコスト削減を追求するあまり保安対策を無視したことや事故後の救援作業の遅れが死者・一酸化炭素中毒患者を増やす要因となったとされる。

その6時間半後の午後9時40分ごろ神奈川県横浜市の国鉄東海道本線の鶴見―新子安間で走行中の下り貨物列車の車両が突然脱線、隣の横須賀線の線路をふさいだ。直後に差しかかった満員の横須賀線の逗子行下り電車は発煙筒を見てからくも急停車したが東京行上り電車が猛スピードで突っ込んだ。この事故で下り列車の4、5両目と上り列車の先頭車両が大破、死者161人、重軽症者120人を出す惨事になった。

原因は貨物列車の車両が激しく揺れたため<競合脱線>し、上り電車の運転士が異常に気付かず突っ込んだことによる多重衝突事故だった。新聞は「血の枕木、うめき声、鋼鉄の車体ざっくり」「切断の火花の下、ゆがむ顔」の見出しが並ぶ。なかでも「痛ましい“死体番号”」は死体の露出部分に識別用の数字が書きこまれて現場にほど近い曹洞宗大本山・総持寺の死体安置所へ運ばれていく犠牲者のむごさを報じたものだ。

わずか半日間に起きた大事故は列島を震撼させた。しかも当初から<人災>である可能性が高いとされていた。翌日の新聞は「東に西に大惨事――前夜、悲痛な叫び」という見出しとともに関連記事で埋まり「血塗られた土曜日」「魔の土曜日」と呼ばれた。

*1875=明治8年  この日の「仮名読新聞」は玉突きの流行に警告する記事を載せた。

わが国に玉突き=ビリヤードが輸入されたのは江戸時代末期にオランダ人が長崎・出島にもたらしたのがはじまりで、明治に入ると横浜のイギリスクラブなどで盛んに行われた。最初、日本人は傍観するだけだったが明治6年ごろ東京の役人や軍人が築地の精養軒などではじめたとされる。賞金を賭ける連中も多かったから<賭博同様である>として政府からは厳しく禁じられていた。

同紙は「これに溺れると家も蔵も仕舞いには皆失す程の怖ろしい悪い遊び故、たとえこれから東京や横浜などに来ましても、皆さん決してこの玉を手にお取りなさるな。又、かような所に立ち止まっても御覧なさるな。ことによっては連累=巻き添えを食うかも知れません」と政府寄りの警告記事を書いている。

また翌年9月の「中外評論」には「近来、東京府下に於いては、西洋風の遊戯玉突きが大いに流行し、堂々たる官員連が争うてここに赴き、色々物品(決して金ではない)を賭にして、頗る勝負を競うとの風説」と紹介している。

時の流行や風俗記事は記者自身の考え方によるところが大きいだろうがそれにしても<決して金ではない>とわざわざ念を押した中外評論の記者はそれを書き添えることが取材の許可条件だったか。

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