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“11月4日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1921=大正10年  原敬(たかし)首相が東京駅構内で暴漢に襲われて死亡した。

原は京都で開催される政友会近畿大会に向かうため神戸行きの急行列車に乗ろうと駅長室を出てホームへと歩いていた。現職首相の暗殺は憲政史上はじめてで「東京日日」は

「原総理大臣刺さる――直ちに絶命す」
突如、横合いから荒い木綿絣紺の袷(あわせ)に鳥打帽をかぶり草履をはいた若い怪漢が現れ、矢庭に隠し持った短刀を抜き取っておどり上がり、首相の右胸部に突き刺した。この刹那、首相は我慢強き気性を発揮し、じっと苦痛を耐えようとしたものの、不幸にも凶刃は深く急所をえぐったとみえ、みるみる顔色は蒼白となった。

と報じた。刺し傷は肺から心臓を貫いており、医師らの手当ての甲斐なく原は30分後に66歳の生涯を閉じた。犯人は山手線大塚駅の転轍手をつとめる19歳の男で、9月28日に起きた大磯での安田財閥・安田善次郎の暗殺事件に<感銘を受けて>行動に移したと話し「民衆の困窮を救うため原の暗殺によって腐敗した政界の革新を企てようとした」と自供したものの背後関係などについては黙秘を貫いた。

新聞記者から外務官僚を経て政治家に転身した原は政友会創立に参画して政治手腕を発揮すると党内の主導権を握り首相にのぼりつめた。爵位を持たない「平民宰相」として人気を集めたが社会運動の弾圧や普通選挙の拒否など党利優先の政治を強行し汚職事件まで起こしたから世間の期待を裏切る結果になり人気が急落した。この事件を予感したかのように9ヶ月前の2月20日付で夫人や子供達に遺書を残していた。

・葬儀は盛岡で行い、自分の亡骸は盛岡の大慈寺に埋葬すること
・墓石の表面には「原敬」とだけ記し、戒名・位階・勲等などは一切記してはならない
・死亡通知は親類にだけ出し、代わりに新聞に死亡広告を載せること
・広告の文章は「父原敬何日何時死去、何日何時盛岡において葬儀を行う」
・生花香典などのお供えは固く辞退する

遺族はこの遺言どおり各新聞に「郷里盛岡ニ於テ仏式ヲ以テ」と場所を指定し、広告を通知に代えることを述べ、生花造花放鳥香典のたぐいを断った。当時の葬儀には<放鳥>もあったようで弔事なのだからやはり白鳩ですか。

*1489=延徳元年  近江国・得珍保(とくちんのほ)今堀の荘園の村人が20カ条の掟を定めた。

この地は琵琶湖の東岸にあり現在の東近江市にあたる。平安時代後期に比叡山延暦寺の僧だった得珍(徳珍)が愛知川から用水路を引き農地を拓いてその荘園にしたのがはじまり。「保」は地域を示す単位でやがて農民が定着して今堀など14の村が発展した。それぞれの村には比叡山にある日吉大社ゆかりの日吉神社が造られた。

掟には親戚以外の他村の住人は村に滞在させない、犬を飼ってはならない、村の入会地の森で勝手に木や葉を取った者は村を追い出すことや細かな生活規範まで定められていた。なぜ犬の飼育が禁じられたかというと日吉の神の使いが猿という伝承と<犬猿の仲>のたとえから。犬は不浄の生き物とされたからだそうな。猫は?ネズミを取るのが仕事だからそりゃあいたでしょうねえ。

*1854年  ナイチンゲールは38人の看護婦らとクリミヤ戦争の戦地、トルコのスクタリに到着した。

「戦傷者は軍隊を離れたひとりの人間で、敵も味方もない」を信念に負傷兵らへの献身的な看護を続けた。ナイチンゲールは傷病兵が戦場で受けた傷からではなく、収容された病院の不衛生な環境からの感染症でなくなるケースが大半であることを見抜き、環境改善に力を注いだ。その結果、死亡率が極端に減ったことからイギリスではその後の軍隊組織を抜本的に改善することにつながった。こうした分析には学んできた統計学の手法が生かされたから「医療における統計学の先駆者」としても評価されている。

クリミヤ戦争での活躍でナイチンゲールは<国民的英雄>に祭り上げられそうになるが、それを嫌って偽名で帰国したとされる。数年がかりでまとめあげた膨大な報告書は政府や軍の上層部だけでなく女王にも報告された。「近代看護教育の生みの親」といわれるが病院建築でも才能を発揮し1860年にはロンドンにナイチンゲール看護学校を設立した。

彼女自身はクリミヤ戦争で罹患したことでその後の55年間は病床で過ごすことが多かった。1901年には完全に失明するが1907年、女性としては初めて有功勲章=メリット勲章を受章した。その3年後に永眠。墓石には「F.N.Born 1820.Died 1910.」とイニシャルと生没年だけが彫られたのは<無名でありたい>という強い遺志によるものだった。

「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」

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