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“11月6日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1898=明治31年  上野不忍池を周回する「内外連合自転車競走運動会」が人気を集めた。

自転車は女性にはふさわしくないとして当時はもっぱら男性の乗り物とされた。女性の地位の低さや<しとやかであるべし>という社会通念もあった時代、乗ると裾が乱れるのも敬遠された。しかも高価だったから参加したのは富裕層の男性ばかりで自慢の自転車のお披露目の場だった。米国製の輸入車が大部分を占めるなかで1890=明治23年に宮田製銃所(現・宮田工業)が国産第1号を売り出していたから<明治のロードレース>は国産と輸入車の一騎打ちになった。

最近の研究では彦根市立図書館で見つかった記録から彦根藩士の平石久平次時光が作った新製陸舟奔車というペダル式の三輪車がわが国最初の自転車と判明した。8代将軍吉宗の時代の1732=享保17年の記録だから現時点で知られている世界初の自転車ということになる。『広辞苑』(第6版)の「1810年代にドイツ人ドライスの製作するドライジーネと呼ばれる地面を蹴って走る二輪車に始まるという」のはそのうち改訂されるかもしれない。

江戸時代末期の慶応年間に輸入された自転車は前輪が極端に大きく後輪が小さいタイプで『広辞苑』の前身の『辞苑』には「その前輪が大きく後輪が小さいのを普通式、前後両輪が同大なのを安全式という」とある。不忍池の周回レースに参加したのは後者のタイプだったろうがゴムタイヤが発明されるまでは「Boneshaker=背骨ゆすり」の別名があったから乗り心地は極めて悪かった。

自転車競走に刺激を受け庶民の間では明治の終わりから貸自転車が大流行した。

  『ハイカラソング』(明治42年)
  チリリンチリリンとやってくるは   自転車乗りの時間借り
  曲乗りなんぞと生意気に      両の手放した洒落男
  彼方(あっち)へ行っちゃヒョーロヒョロ
  此方(こっち)へ行っちゃヒョーロヒョロ
  それ危ないと言ってる間にころがり落ちた

当時の新聞でたびたび危険運転が批判されているところはいまとまったく変わらない。夏目漱石の『坊ちゃん』に自転車が登場すると聞いて「マドンナ」が乗っていたかと思ったら「うらなり君」の送別会で飛び出した即興の歌だった。

  花月巻白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車弾くはヴァイオリン・・・

作品が発表されたのは1906=明治39年だからようやく目立つようになった<自転車女子>は女性の社会進出の象徴となっていく。余談ながら「自転車操業」が『広辞苑』に登場したのは1969=昭和44年改訂の第2版から。「操業を停止すれば倒産するほかない企業が赤字を承知で操業を続けていく状態。自転車が走っている限り倒れないことにたとえる」と。

*1910=明治43年  わが国初の集合住宅・上野倶楽部が上野不忍池のほとりに完成した。

きょうは何だか<上野つながり>ですねえ。この建物は洋風の外観を持つ木造5階建てで計63室。「上野公園の森林を背景とし住宅としての好適の位置を占む」が宣伝文句で、6畳と2畳、または6畳と4.5畳の2間でトイレや洗面所、浴室、電話は共用、敷金は家賃の3カ月分だった。

当時としてはピカピカの近代アパートだったから役人や外国人も多く、日本共産党の初代議長になる野坂参三や当時は出版社社員だった詩人の西條八十が住んでいた。ここでつくられた「かなりや」は八十が世に出るきっかけをつかんだ童謡である。

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は   後ろの山に棄てましょか
いえ、いえ、それはなりませぬ

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は   背戸の小藪に埋(い)けましょか
いえ、いえ、それはなりませぬ

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は   柳の鞭でぶちましょか
いえ、いえ、それはかわいそう

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は   象牙の船に、銀の櫂
月夜の海に浮かべれば        忘れた唄をおもいだす

ところで歌詞に登場する<後ろの山><小藪><柳>もアパートから見えるところにあるし<月夜の海>も月光を浮かべた不忍池の情景からインスピレーションを得たのではないかなどと考えると楽しい。

それにしてもこう書き出してみると童謡とはいえ結構残酷な歌詞ではありませんか。

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