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“2月24日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1968=昭和43年  茶の間をテレビにクギ付けにした「金嬉老事件」が午後3時25分に解決した。

別名「寸又峡事件」といい<劇場型犯罪>のさきがけとなった。どうして時間まで書いたかというと手元にある「金逮捕の瞬間」という写真にたまたまあったから。その4日前、手形トラブルから清水市のクラブで暴力団員2人をライフル銃で射殺した39歳の在日韓国人二世の金は、30発弾倉を装着したそのライフル銃と実弾1200発、ダイナマイト72本、自決用に青酸カリを用意して車で大井川上流の寸又峡温泉に向かった。温泉入口すぐの「ふじみ屋旅館」に乗り込むと客と経営者、従業員ら16人を人質に2階に立てこもり、みずから警察と新聞社に連絡した。

翌日朝に呼びつけた警察幹部と交渉しての要求は、殺した暴力団の悪行の公表と自分に差別発言をした警官の謝罪で、記者らを相手に記者会見を何度も行った。映像だけでなくかかってきた取材電話にも出たので事件現場がそのまま茶の間にニュースとして届いた。学生運動などでマスコミは常に警察のジュラルミン盾の外側から取材した映像を流してきたがこの事件では直接取材を許された。つまり犯人から「こちらに上がってこい」と招かれたわけで、電波を通じて金の主張が全国に流れ、旅館でもそのニュースを見ていたので、最後まで「金さん」と敬称付きで呼ばれた。

最初は「1人逃げたら1人殺す」と脅されていた人質も、金が「あんたらは同居人みたいなもの。一切手出しはしない」と約束した通りだったことで奇妙な<連帯感>が生まれた。籠城すること88時間、体調を壊した人質を解放するため玄関先に出てきたところを記者の腕章を巻いて変装した警官6人が一斉に襲いかかり取り押さえた。金は舌を噛み切って自殺を図ろうとしたが気づいた警官がとっさに口の中に自分の警察手帳を押し込んだ、というのは有名な逸話だ。

その後、終身刑を受けて服役、1999=平成11年9月の仮釈放後、韓国に強制送還された。一時は「民族差別に抗した英雄」ともてはやされたが交際相手の夫に対する殺人未遂などで実刑判決を受けて人気は失墜、膀胱がんで釜山市の病院で死去した。享年82歳。まさに疾風怒濤、直情径行の人生。遺言で遺骨の半分は父親の故郷・釜山沖に散骨され、残りは籠城した旅館の壁に「お母さん不幸(=まま)をお許しください」と炭で書き、終生敬愛した母親の眠る静岡県の墓地に分骨された。

*1934=昭和9年  「直木賞」に名を残した作家・直木三十五が43歳の生涯を閉じた。

本名:植村宗一、筆名は31歳のとき「植」を二つにして直木、最初は年齢通り「三十一」から出発したが一向に目が出ない。「三十三」の時に大阪の料亭の仲居さんに「みとみはんて芸者みたいだすなあ」といわれてこりゃいかん。「三十四」は「ミトーシ(見通し)ナシ」でこれもダメと「三十五」にしたというウソのような話が伝わる。

「貧乏は長く芸術は短かし」という名言を残したそのままの人生だったが親友で文藝春秋社社長の菊池寛が直木の死を悼み、その功績をたたえるためにこの年「直木賞=直木三十五賞」を「芥川賞=芥川龍之介賞」とともに制定した。

発足当初の対象は「無名若しくは新進作家の大衆小説」が規定とされたが現在は中堅作家にも間口が広がった。第1回目1935=昭和10年の上半期の受賞は『鶴八鶴次郎』『風流深川唄』『明治一代女』の3作で川口松太郎に決まったが今と違い報道で大騒ぎにはならず単なる文壇でのできごとというか表彰に過ぎなかった。

*1873=明治6年  明治政府が切支丹禁制の高札を降ろすよう太政官布告を出した。

江戸時代の1613=慶長18年に始まった国禁としての切支丹禁制は260年ぶりに効果を失った。きっかけになったのは欧米を巡回中の岩倉使節団が政治家や現地の世論から「迫害の中止」を強く迫られた。岩倉が「これが条約改正を妨げる最大の要因である」と電報を打ったことが政府を動かした。

のちに東京、横浜、大坂、神戸などに教会が設けられ、教育に力を注いだことで明治の文化発展に大きな役割を果たした。

*1957=昭和32年  日本と北欧をつなぐ北極横断定期航空路の一番機「地球特急号」が飛んだ。

スウェーデン、デンマーク、ノルウェーの3国が共同運行するスカンジナビア航空の第一便で羽田を発ったダグラスDC-7型機が北極ルートでコペンハーゲンに向かった。それまでの東西回りより21時間もの短縮になった。

乗客には機内で「北極上空通過証明書」が発行されてちょっとした<お宝>になったが現在はシベリア上空経由に変更になったのでそれはなくなった。

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