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“2月23日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1944=昭和19年  太平洋戦争中のこの日、東条英機首相が東京日日新聞の記事に激怒した。

新聞の一面全部をつぶして「勝利か滅亡か、戦局は茲(ここ)まできた」「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」とあった。大本営は新聞社に新聞の発行差し止めと記者の処分を強く申し入れたが新聞はすでに配達済みで、会社は編集責任者を処分したものの記者は不問になった。書いたのは海軍省記者クラブ「黒潮会」のキャップ=主任記者だった新名(しんみょう)丈夫で、まもなく新名は二等兵として“懲罰召集”される。これが「竹槍事件」と呼ばれた言論弾圧事件である。

新名は当時37歳、大正時代に徴兵検査を受けたが弱視で兵役免除になっていた。海軍が「大正の老兵を全国に先駆けてたったひとりだけとるのはどういうわけか」と陸軍に猛抗議したため、陸軍は急遽<大正徴兵組>の250人を四国・丸亀連隊に召集して辻褄を合わせた。背景には航空機や軍需物資の調達配分をめぐり、半々を主張する陸軍とそれ以上を要求する海軍との深刻な対立があったとされる。新名は硫黄島に配属される予定だったがこれも海軍の横やりで流れ、同じ丸亀連隊に入営したものの3ヵ月で除隊になって海軍報道班員で終戦を迎えた。一方の丸亀連隊の250人は全員が硫黄島へ配属され玉砕した。

海軍が最後まで庇護したひとりと過酷な運命に散った250人。新名は戦後、評論家として「竹槍事件」も含めた戦史の生々しい裏面を自身が編集した『海軍戦争検討会議事録』などの記録に残している。

*1784=天明4年  博多湾に浮かぶ志賀島で農民が「漢委奴国王」の金印を見つけた。

金印は田の溝を直していた百姓の甚兵衛が石の下から発見し、郡奉行を通じて福岡藩に届けられたとされる。藩お抱えの儒学者・亀井南冥が鑑定して中国の史書『後漢書』に書かれている金印であると同定した。純金製で高さ2.236cm、印台の一辺は平均2.347cm、重さは108.729グラムと意外に小さいというのが私の実際に見た印象である。

金印は漢の国王が日本の国王に授けたものとされるが、その位置づけやどう読むのかの解釈からして諸説がある。「奴」を「な」とすれば現在の那珂川沿いにあったとされる奴国王だし、「委奴」を「いと」と読めばさらに西の伊都国王に贈られたことになる。邪馬台国もそうだがまさに<百家争鳴>で金印の謎を巡っていまもなお多くの本が出されているからご関心がある方はぜひ。

金印は明治維新後に黒田家が東京に移った際に東京国立博物館に寄託されていた。旧・国宝を経て新たに国宝に指定され現在は福岡市博物館で保管・展示されている。

*1929=昭和4年  神出鬼没で東京府民を震え上がらせた「説教強盗」妻木松吉が逮捕された。

西巣鴨に住む山梨出身で29歳の左官職人で、盗みに入った家で、家人を起こして金品を要求。「庭が暗いからお宅には入りやすかった。庭には明かりをつけなさい」「犬を飼うならよく吠えて人になれないのがいい」と防犯上の諸注意を懇切に“説教”したあげく「夜が明けたらすぐに警察に届けなさい。お断りしておきますが電話線は切ってありますからここからなら3丁目の交番がいいでしょう」などと言い残したところからその名がついた。

4年間にわたった犯行は当時の杉並、中野、豊島、小石川、本郷のいわゆる城北エリアの各区に及び、各地で自警団が作られた。金持ち層が競って何匹もの番犬を求めたため犬の値段が高騰した。当時の東京朝日新聞は「捕まえた者に千円、その正体、居所を密告した者に三百円の懸賞金を出す」と告知を出し、これがまた話題となった。

逮捕のきっかけは犯行現場に唯一残された指紋だった。前科のあった妻木が浮かび、住み込んでいた植木屋であっけなく捕まった。それまでの<経験と勘>による捜査からはじめて指紋照合という科学捜査が成果を上げた。号外が「帝都を震撼させた説教強盗一世捕わる」と強調したのはそれだけ<模倣犯>も多かったということか。

*1943=昭和18年  戦意高揚のため陸軍省が「撃ちてし止まむ」のポスター5万枚を印刷した。

紀元二千六百年の式典が終わった1940=昭和15年に街角に貼られたのは「祝ひ終わった、さあ働かう」はその後の国民の進路を暗示していた。太平洋戦争が始まると「進め一億火の玉だ 屠(ほふ)れ米英我等の敵だ」から「欲しがりません勝つまでは」「さあ二年目も勝ち抜くぞ」と続き「撃ちてし止まむ」が登場した。

山本五十六元帥戦死のあとは「元帥の仇は増産で」さらに「鬼畜米英」へとエスカレートしていく。たかが標語ではあるが国民を奮い立たせるのに躍起になった世相を伝える。

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