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“7月18日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1974=昭和49年  スイス人自然保護運動家がインドネシアのコモド島で消息を絶った。

名前をルドルフ・フォン・レディング・ビベレッグ男爵という。男爵はドイツ人グループと「巡航ボート」で島にやって来た。コモド島は東西に長く連なるインドネシア諸島の中でも東部のバリ島のさらに東約400キロ、フローレス海に浮かぶ小スンダ列島に属している。消息を絶ったのは密林で?と思われるかもしれない。だがこの島は火山島で溶岩台地やサバンナが多くジャングルは少ない。

来島の目的は島に生息するコモドドラゴンという大トカゲの生態観察だった。絶滅したと思われた恐竜の子孫とされ、1910年にたまたまこの島に不時着した飛行家が見つけた。誰もそれを信じようとはしなかったが2年後、こんどはオランダの植民地歩兵隊が2頭を撃ち殺すのに成功する。標本はジャワに送られオランダ人の動物学者オーエンスが研究対象に取り上げ、恐竜の名残をとどめる巨大化した大トカゲの一種であると発表した。学名のヴァラヌス・コモドエンシスはオーエンスの命名による。通称コモド大トカゲがようやく世界に認知された。

体長は2―3メートルで確認された最大個体は3メートル超、体重も130キロは優にあるとされ、隠れ洞窟にはもっと大きいのが潜んでいる可能性もある。敏捷でかつ獰猛なうえに保護対象のため正確な体重などは未測定であるという。過去、この島には多くの象が繁殖していた時代があり、それを食料にするために巨大化したともいわれる。為政者たちは犯罪者や敵対する部族をこの島に置き去りにしてきた歴史があった。つまり大トカゲに<捧げられた>わけだ。

さて男爵の話に戻ろう。大トカゲを観察するためにヤギをつないだ観察スポットは船を着けた場所からはさらに谷間を登って行ったところにあるというので89歳のご老体の男爵は日陰で待つことになった。2時間後、戻ってきた一行が男爵を探したが姿はなく、愛用していたハッセルブラッドのカメラとちぎれたストラップが残っていた。直ちに捜索隊が組織されて丸2日間にわたって捜索が行われたが男爵の姿はどこにもなかった。

フローレス海をはるか下にのぞむ草地に粗末な白い十字架が立っている。墓碑銘がわりに打ちつけられたはがき大のプラスチック板には

  ルドルフ・フォン・レディング・ビベレッグ男爵の霊に捧げる

   1885.8. 8 スイスに生まれた
   1974.7.18 本島にて消息を絶つ
   男爵は生涯を通じ自然を愛し続けた

と刻まれている。当時のインドネシア政府は大トカゲを見せる「巡航ボート事業」に影響しないよう男爵は公式には<消えた>とだけ報告されているからだ。

*1962=昭和37年  丹下左膳役などで知られる時代劇の<大スタア>大河内傳次郎が没した。

大分県境に近い福岡県大河内(現・豊前市)出身ということから新国劇で使った室町次郎から映画界に移る際に改名した。日活の伊藤大輔監督に見出されサイレント映画で一躍人気を集め、トーキー時代になると昭和初期の『丹下左膳』シリーズの<見得>で使われた「シェイは丹下、名はシャゼン」は大河内のモノマネとして定着、独特のなまりと迫真の殺陣で一世を風靡した。活躍した時代劇映画は京都を中心に多くの名作が撮影され衣笠貞之助、マキノ雅弘、山中貞雄などの名監督がメガホンをとった。

大河内は強度の近視だったからふだんは<牛乳瓶の底のような>と形容される眼鏡が手放せなかった。眼鏡なしでは自分のつま先もよく見えないほどだったので役のうえではそれが使えないので見えない分、動きが微妙にずれて<目には異様な光を宿して>となった。相手に肉薄して刀を振ることで<迫力ある殺陣>と評価されることになったが相手役は切られたふりではなく実際に切られた生傷が絶えなかったため「出演料に膏薬代を付けた」といわれた。共演者にとっては迷惑な話だったでしょうねえ。

往時はバンツマこと阪東妻三郎と並ぶ大スターで、ギャラの高さから<最高給俳優>と呼ばれた。東宝、新東宝、大映と移り『ハワイ・マレー沖海戦』などの戦争映画や『わが青春に悔なし』などの現代劇にも重厚な演技で存在感を示した。

晩年、最後に移籍した東映では「過去の栄光は忘れてください」といわれて脇役に徹しながら京都・小倉山の山荘造営に打ちこんだ。藤原定家が小倉百人一首を選んだゆかりの地で、山荘の一角に「持仏堂」を建てて念仏三昧で過ごすほどの敬虔な仏教徒としても知られた。

胃がんのため64歳で亡くなったが「大河内山荘」と聞いて日本映画華やかなりし頃を思い浮かべるのは私だけではないはずである。

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