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私の手塚治虫 第28回  峯島正行

私の手塚治虫(NO28)
峯島正行
虫プロの終焉

「展覧化の絵」を自腹で制作

前回まで、虫プロの経営を担当した人たちの不適正というか、経営能力の足りなさ、そして不正まで飛び出し、虫プロの経営を難しくしたことを、縷々述べた。その経営力の無さが、手塚の年来の目的とした芸術性の高い、実験的作品の制作まで、困難にすることになった。
漫画家、九里洋二、柳原良平、イラストレーターの真鍋博の「アニメーション3人の会」が、昭和39年から「アニメーション・フェスティバル」と称して、一般に参加を求めたが、虫プロの人々は無関心であった。手塚は、小品を出品した。それを機に手塚は、漫画家や画家に、実験的アニメーションのイニシアチブをとらせる前に、本職の虫プロこそが、核になるべきだとして、虫プロの役員会に、劇場用の実験的アニメ、「展覧会の絵」の制作を提案した。昭和41年のことである。
役員会は資金繰りの苦しさを理由に、手塚の提案の受けいれを渋った。「展覧会の絵」は手塚が前から温めていた企画で、ムソルグスキー作曲、ラベル編曲「展覧会の絵」10節の各節を、視覚的にイメージ化して、具体的なエピソードを造り、それを繋ぎ合わせて、芸術的な世界を表現しようとするものであった。
考えてみれば、手塚が、虫プロを作った目的は、芸術的実験アニメを制作することで、テレビ・アニメ制作は、その資金を作る手段だったはずである。それが今や目的と手段が逆転してしまっているのだ。
手塚は役員会を無視して、二千万円の自腹を切って、この実験アニメを制作した。それが、完成したのは、昭和41年秋だった。
虫プロのテレビ・アニメの方は、その年の夏過ぎから、子供向きに作られた「ジャングル大帝、進めレオ編」の視聴率が急落し、翌年の3月で放映打ち切りが決まっており、テレビ・アニメの第一弾として、まる4年朝野を沸かせた「鉄腕アトム」も年内打ち切りが決まっていた。代わって、すでに紹介したように手塚の漫画「ぼくの孫悟空」を原作にした「悟空の大冒険」と「リボンの騎士」が制作中であり、前者は翌昭和42年の1月7日から、後者は、4月5日からの放映が決まっていた。
丁度そういう時期であったためか、その年の11月11日、虫プロは麹町区平河町の都市センターホールを会場に「第二回虫プロフェスティバル」という名前で、アニメの試写会を催した。手塚が自費で制作した40分ほどの実験アニメーション映画、「展覧化の絵」と1月から放送の決まったテレビ・アニメ「悟空の冒険」の第一話が上映された。それは昭和37年に、催された「ある街角の物語」と「鉄腕アトム」第1話が発表された「虫プロダクション第1回作品発表会」以来、丸4年ぶりの催しであった。
実験作品「展覧会の絵」は、それなりの評判を呼んだ。翌年の1月から2月にかけて、芸術祭奨励賞、ブルーリボン教育文化映画賞を受賞、文部省推奨の教育映画として「丸の内ピカデリー」で公開された。また毎日映画コンクール大賞を受賞した。

「悟空」の失敗

テレビ・アニメの方は「ジャングル大帝」が専門家の受けが良かったにも拘わらず、視聴率が急速に下がり、ついに10パーセントを割るに至り、昭和42年の3月をもって打ち切りとなったのは前述したが、その理由については、手塚は、この作品の制作から始めたプロデューサーシステムの失敗だといっている。
「若いスタッフ――特に学校を出たての演出家たちは、自分の個性をアニメに出してみたいという意欲が強く、それが虫プロのモットーの一つであった“子共に最良の夢を与える”という線から、いつか大きく外れて、作品を玄人受けするハイブローなものにさせてしまったらしい。つまり作家意識が強く出すぎたのである。残念なことにプロデューサーシステムは、もう一つの弊害をもたらした。虫プロ内部を極めてセクト化してしまったことである。たとえば、『アトム班』と『ジャングル大帝班』とに分けたところ、班員たちが自分の城を守る事に精いっぱいで、班員の交流どころか、お互いをライバル視して顔もあわさない、という空気さえ生じた」
と手塚は書いている。(「現代」 昭和42年9月号 鉄腕アトム苦戦中)
この状態を見て、手塚の現場復帰が要請されたが、時すでに遅く、現場には、強い縄張りの箱のようなものが出来ていて、手塚でもその中には入れなかった。
かくして、理想に燃えて始まった虫プロも理想の方向から遠ざかり、手塚の意志の及ばない存在になっていったのであった。

「鉄腕アトム」の後を継いで、昭和42年正月から始まった「悟空の大冒険」も、虫プロの幹部やプロデューサーが、力を入れた作品にも拘わらず、思うような人気は出なかった。その年の9月いっぱいの放映で打ち切られる運命にあった。
また42年になって、制作を開始した手塚原作の漫画をアニメ化した「0マン」のパイロットフィルムが秋に完成,これを各テレビ局に提示したが、買う局はなかった。
そうすると、フジテレビ系列で4月から始まった「リボンの騎士」一本しか、虫プロ作品は、放映されていなという状況に陥った。
虫プロの存立に、影が差し始めたといっても過言でなさそうな状況となった。虫プロにとって、鳴り物入りで作り上げた、「悟空の大冒険」の失敗が大きく響いた。
悟空の失敗について、前掲文の中で手塚は次のように述べている。
「『孫悟空』は虫プロでは、ハイブローな『展覧会の絵』につぐ虫プロ第四番目の作品であるから、当然ある程度の俗受けする作品を作ることにしていたが、これが逆にハイブローな作品になってしまった。プロデューサー中心にがっちり固まった『強い箱』は、原作者の意見も、なかなか聞き入れてくれないようになってしまった。
更に悪いことにアメリカに売ろうとして、必要以上にバタ臭くしてしまったことである。
どんなにバター臭くしても、アメリカに売れるはずがなかった。アメリカでは昔からサルを主人公とした漫画はタブーだった。もう一つ、悟空には魔法が多すぎた。これもアメリカ人には理解できないことだった。
ボクはこれらを指摘して、日本人だけに向くストーリーで、制作費のかからない白黒で作るように助言したが、どういうわけか、カラー作品となり、内容も原作者のぼくがみてもよく分らない作品になってしまった。かくして子供たちに見放されて視聴率はガクンとさがった」(前掲文)

アニメ界の変貌

このような作品上の問題もあって、虫プロの営業成績に響いていったのであるが、そればかりでなく、テレビ・アニメが創始以来、五年の歳月がたち、アニメ界の周辺事情の変化も、営業に響いてきた。
この年、昭和42年10月の段階で見ると、国内で放映されているテレビ・アニメは,週15番組を数えるに至っていた。制作プロダクションは11社になった。そのうち4社が、週二番組を制作し、7社が一番組であった。虫プロは「リボンの騎士」一番組のみであった。
この問の状況について、虫プロのプロデューサーだった山本暎一は次のように述べている。
「15の番組枠を、11社で取り合うのだから、競争は激烈になる。どこの社も経営を維持するため、最低、週に2枠は欲しい。さらに、新しく参入を狙う社もある。そこで、売値をダンピングしたり、マーチャンダイジングの歩合を局に与えても、枠をとろうという社が出てきた」(「虫プロ興亡記」 一九八九年 新潮社)
かくして、テレビ・アニメ市場は、売り手市場から買い手市場に変わった。それが今まで制作プロダクションが主体だった作品市場も、買い手のテレビ局が、イニシアチブをとる傾向が強くなった。
これらの状況は虫プロに不利に働いた。それについて、山本はおよそ次のように、前掲書の中で述べている。
「虫プロは手塚を先頭にした、作家プロダクションである。資金作りのための作品でも、作家活動の一端だというプライドがあった。手塚の体面から言っても、他のプロダクションのように卑屈な商法や、あこぎな商売は出来ない。そうなると、どうしても競争力が不利になる。
それに、この頃、週刊児童漫画誌が急速に発行部数を伸ばし、一号数百万の単位で、発行されるようになった。そうなると、そこに新たに多くに人気漫画家が生まれた。横山光輝、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫、水木しげる、ちばてつや、川崎のぼる等、彼ら作品を原作にすれば、第一人者の手塚を大事にしなくても、原作に困ることもなくなり、視聴率を取れなくなることもなくなった。
だから手塚を総帥とすることが虫プロの決定的なメリットではなくなった。手塚原作の「0マン」が売れなかったのもこうしたアニメ界の状況変化と無関係ではなかった。
この秋、虫プロ関係で売り込みに成功したのは江戸川乱歩の小説、「少年探偵団」のアニメ化である「わんぱく探偵団」であり、虫プロ商事が作った川崎のぼる原作の「アニマル1」であった。どちらもテレビ局主導で生まれたものであった」
以上当時の虫プロの置かれた状況を端的にとらえていると思われる。

アニメラマ「千夜一夜」の人気

このような状況下に置かれた虫プロとしては、そこから脱却するために、なにか強烈な新企画をたてなければと、手塚が頭をひねっている時、「日本ヘラルド映画」から、劇場用の長編アニメーション映画をつくるよう要請があった。
ヘラルドの波多野三郎専務が、ヘラルドは映画の輸入をやってきたが、たまには映画を輸出して、外貨を稼ぐ方法はないかと考えた末、浮かび上がったのが、長編アニメ映画の輸出であった。それも大人が喜ぶ本格的な大衆娯楽作品にしたいということになって、その制作の相談に、手塚を訪れたのであった。
ヘラルドとしては、最初から海外輸出を狙うのではなく、まず国内で封切って、その売り上げで、制作費と宣伝費を回収して採算をとり、それから海外輸出を図るという考え方だった。国内の封切館としては、東京の代表的封切館である新宿ミラノ座、渋谷パンテオン、東銀座の松竹セントラルでロードショウをする。すでに興行関係者は乗り気なのだと、波多野専務は 手塚に語った。
日本で最初の大人向けの大衆娯楽作品の長編アニメ―ション映画をこれまた日本で最初に超一流映画館で、ロードショウをする。まるで夢のような話である。手塚は、すっかりこの話に乗った。
ところが、当時の虫プロの財力では、制作費が出せないことが明瞭だった。この時点で、虫プロのテレビ・アニメは「リボンの騎士」一番組の放映しかなく、制作中の作品の前払いを受けて、ようやく凌ぐ状態だった。まして数千万円はかかるであろう、長編アニメ映画の制作費が出来る筈はなかった。
手塚は、それでも千載一隅の好機をのがしたくはなかった。そこで翌年になってからヘラルドに、制作するアニメの配給収入の前払いを交渉した。その結論が出るまで三か月もかかったが、配給収入の前払いと製作費の借入もヘラルドは承諾したが、配給収入のヘラルドの取り分は70パーセント、虫プロの取り分は、30パーセントになってしまった。
その取り分では、赤字になる可能性があったが、それでも、手塚は後に引かなかった。
作品タイトルはアラビアンナイトから題材をとった「千夜一夜物語」と決まり、昭和43年4月、両社社長の間で契約がまとまった。
早速、制作、総指揮、構成手塚治虫、監督山本暎一で、制作が開始された。手塚のシノプシスによって、ストーリーが出来てゆく。

――砂漠のかなたからバグダッドにやってきたアルディンは、水売りとなる。ある日奴隷市場で、美しい高価な女奴隷ミリアムを見初める。しかし貧乏な水売りには、買えない。折からの竜巻を利用してミリアムをかっぱらう。ミリアムとの熱愛。奴隷泥棒の罪を問われて、投獄されたが、そこから脱走、様々な困難と戦いついバグダッド一の富豪となり、王様となり、この世の快楽と富を謳歌するも、それも空しいものと悟り、より大きなものを求めて、砂漠の旅に出てゆく――
エロチックなシーンいっぱい、戦いあり、冒険あり、目くるめく、物語が展開する。

登場人物のキャラクターのデザイナーにやなせたかしを起用し、主人公の声優に、参議院議員になったばかりの青島幸男を、美貌の女奴隷には岸田今日子を依頼した。その他の声優は、劇団「雲」総出演となった。芥川比呂志、小池朝雄、伊藤幸子、加藤治子、文野朋子、三谷昇、橋爪功などなどである。手塚はまた、知人、友人の有名人に、一言ずつの声の出演を依頼し、にぎやかな完成を期した。すなわち、遠藤周作、吉行淳之介、北杜夫、筒井康孝、小松左京、大橋巨泉、大宅荘一、前田武彦、大橋巨泉、野末陳平等々。
しかし制作は、テレビ・アニメの制作と絡んだり、シナリオが進まなかったり、さまざまのことがからんで完成が遅れにおくれ、最後は昭和44年6月12日の封切り日の朝まで、かかってしまったという。

ふたを開けてみると「千夜一夜物語」は大ヒットした。業界ではこれをアニメラマと称し、売りまくった。アニメラマとはアニメーションとシネラマと結びつけた造語だった。
その年の日本映画の興行成績の第三位になった。その配給収入は、3億600万円であった。ヘラルドは、配給収入から経費として宣伝費とプリント代、8千800万円を引き、残りを7・3で分け、6千540万円を虫プロに払った。制作費の予定は4千500万円だったが、実際は、7千450万円かかってしまったので、910万円の赤字だった。「初めての試みだったので、内容に力を入れすぎたのであって、次回作からロスを減らせれば黒字になしうる」と山本監督は言った。
大人向け長編大衆娯楽アニメーションに、手塚は自信を持ったようで、二作目の話が持ちあがった。

「千夜一夜物語」に次ぐアニメラマ第2弾は「クレオパトラ」と決まった。手塚と山本が共同監督、キャラクターは小島功に依頼、そのストーリーは、数奇な運命をたどった美女クレオパトラの半生を、奇想天外なアイデアと妖艶なエロチシズムを、古代エヂプトとローマをバックに描く壮大艶麗な世界である。
昭和45年9月に無事に公開された。「千夜一夜物語」と同様、新宿ミラノ座、渋谷パンテオン、東銀座の松竹セントラルのロードショウで封切られた。その配給収入はその年の第10位、海外への販路も伸び、一応の成績を収めることができた。これにより、劇場用長編アニメーションの前途は、一応定着したと手塚は自信を持った。
虫プロは、「千一夜物語」「クレオパトラ」のアニメラマの制作中も、テレビ・アニメの制作は、紆余曲折はありながらも、続けられていた。すなわち「わんぱく探偵団」の後、川崎のぼる原作の「アニマル1」石森章太郎原作の「佐武と市捕り物帳」、時代物怪奇物語「どろろ」、ちばてつや原作の「あしたのジョー」外国の原作の「ムーミン」牧野桂一原画の「アンデルセン物語」と続いていった。ただし、手塚の原作が少なくなり、原作を外に求めるようになったのも時代の変化による事で、やむを得なかったのかも知れない。

プロダクションの凋落

昭和46年代になると、アニメ界は「鉄腕アトム」のころと全く違った様相を呈するようになった。それを山本暎一の「虫プロ興亡記」では、次のように説明する。
「マーチャンダイジングの収入は『鉄腕アトム』の頃には、原作者と制作プロダクションのものだった。ところがテレビ局が、放送がなければ発生しない金だからと、当然の権利として分け前をとるようになった。さらに出版社や広告代理店、それぞれもっともらしい理由を振りかざし、分け前を要求して割り込んだ」(前掲書)
更にアニメを本にして出版したり、再編集して映画館に掛けたり、レコードを出したり、いろいろ二次使用で稼ぐことが広まった。そうなると次第に、アニメの制作主体は放送局になっていった。放送局が作品を決定し、広告代理店、原作の出版社、レコード会社、音楽出版社、などとプロジェクトを組み、アニメの制作が行われるようになった。アニメ・プロダクションはそのプロジェクトの一員に組み込まれ、テレビ局の指示にしたがって番組を作る下請け工場に位置付けられてしまった。そうして、プロダクションは作品を納入して、テレビ局からくる制作費だけで、採算を合わせるようになる。
そのプロダクションは、局から受け取る制作費から、まず利益金を差し引きして、残った額を制作費にする。そうなると高い月給をアニメーターに払うより、独立したアニメーターと契約し、制作費にみあうように出来高払いのアニメの料金を払うようになる。こうして、プロダクションの中核として、作家意識旺盛な誇り高きアニメーターが単なる下請けになっていくのはやむを得ない。それでも月給より、稼げるとなればいいとして、大勢に従うアニメーターが増加していった。
かつてアニメ・プロダクションは、アーチストとして、誇り高いアニメーターやカメラマンや演出家が切磋琢磨する創造の場であった。今やそのスタジオが、単なる制作管理事務所、外注から外注へと画の集散の場と化した。
この劇的変化が、夢の集散地だった虫プロの終焉の背景となって、手塚を敗北の道へと導くのであった。
そうして、虫プロの社内は、虫プロを事業体と重視する派と、虫プロ創業の方針だった、作家性と芸術性を重視する派と社内二つに割れた。
手塚は誰の作品を虫プロでアニメ化してもよいが前衛性、作家性こそ、虫プロの基本でなければならない。その作家性を維持するために、金を儲けるのであって、儲け仕事のための虫プロではないと、心底思い詰めていた。
だが、それに反対する勢力が虫プロの半分を制していた。
その辺が、筆者にはわからない所であった。虫プロの資本の全額は手塚の出資によるものであり、創業以来の、莫大な赤字は、手塚の腕一本で稼いだ、漫画の原稿料及び手塚の個人資産をつぎ込んで埋めてきたものである。
その絶対の資本家の方針に従わない会社の重役や社員が存在することは、一般の経済社会では許されないのである。それが虫プロ社内では、堂々とまかり通っていたのは、誠に不思議な現象と言わねばならないだろう。
その無法な事態が、虫プロでは罷り通ってしまっていたのだ。
虫プロの今後をアニメ集団で行くのか、営利事業で行くのかという手塚の問いかけに、なんども何度も社員総会が開かれたが、社内の体制は、後者を選んだ。
昭和46年6月、手塚はここまで育んだ虫プロを無き物にするのは、忍びがたかったのだろう、虫プロのそれまでの一切の借財を自分の借財として、社長の座を降りた。
後継社長に、制作部長だった川端栄一が選ばれ、資本金を200万円から1千万円に増資した。その資本金はだれが負担したか不明である。そして、労働組合も結成された。

倒産への道程

手塚は、すでに漫画制作のために創立した「手塚プロダクション」にこもって漫画を描いていられるならば、ことは平穏に過ぎたかもしれないが、そうはさせてくれない事情がった。
それは子会社の「虫プロ商事」の存在であった。虫プロ商事は、虫プロをアニメ制作だけに専念させて、独立採算出来るようにするため、虫プロの営業部、出版部、版権部を分離させて創立した会社であった。虫プロの専務今井義章を社長にして出発した。これを創立させた当時の穴見薫以下の虫プロの担当重役の迂闊さから、とんでもない結果をもたらすことになった。
それは虫プロ商事が、虫プロと競合するような事業に手を出さないことを定款等に明記し、虫プロと商事が競合することが無いように措置しておかなかったことだ。旧虫プロの経営者が、一つの事業体が組織されると、思わぬ方向に動き出すことがあり得るという、経営的常識がなかったためであろう。
案の定、商事の連中が、虫プロがなかなか採算の取れる事業体にならないため、手本をみせてやるというような余計な事を言いだし、商事が虫プロと同じく、アニメの制作を始めてしまった。それが「アニマル1」であり、「バンパイヤ」であった。その結果は、両方とも赤字、とくに後者の赤字は莫大だった。手本を見せるどころではなかった。それでも懲りず、日本テレビの番組の下請け的な仕事に、手を出していった。
これには、虫プロの幹部が大憤慨していた。もし商事に、手本を見せる力量があるなら、商事の社長の今井が、虫プロの専務であるのだから、虫プロでやればいい。
ただでさえ虫プロのシェア減少傾向にあるのに、虫プロを苦しくさせるだけではないか……。この場合今井という手塚子飼いの人間は、なんということだろう。手塚を苦しめる役割しか果たしていない。
商事の出版部は、最初、漫画雑誌「COM」を発刊、そこに、手塚の生涯をかけて描く大作といわれた「火の鳥」を連載、また当時の青年漫画流行の先端をゆく編集方針に、多くの読者が付き、相当の成績を上げた。筆者らも勉強のため、よく読んだものである。
やがて「COM」の他、「月刊ファニー」漫画単行本シリーズ「虫コミックス」などを発行する。
しかし、商事の利益の根源であった、マーチャンダイジングによる収入が、テレビ・アニメの手塚の原作による作品が、減るにつれて、激減した。これが商事にとっては大きな痛手になった。それに、テレビ・アニメ制作という余計な仕事で、一層赤字を増やしてしまった。
そんな時、「月間ファニー」の編集長が交通事故死したために「ファニー」が廃刊となり、その為の人員整理問題から労働組合が出来て、労使紛争となった。
ある日、商事の今井社長がやってきて、手塚に団交の席に出てくれという。
「それは困る。漫画を描く仕事があるし、僕は役員でもないし」
「それが先生、先生が社長になったんです。先ごろ役員会で決めて登記したのです。私が社長を降りて」
「そんな馬鹿な」
実は、親会社虫プロの役員でもある手塚の父親が、請われるままに手塚の実印を押してしまったという。それにしても、今井という男は何という男なんだろう。
大衆団交に当たった手塚は、締め切りに追われて漫画を執筆しながらのことで、死ぬ思いをした。結局、何時までもらちが明かず、社員のほとんどが、嫌気がさしてやめてしまい、団交は終わった。
事ここにいたっては、商事の終末も時間の問題であった。昭和46年、新しい担当部長のもとに「てつかまがじんレオ」という雑誌を出したが、返本が7割にも達した。このような状況で、ついに金繰りがつかなくなって、昭和48年8月22日、虫プロ商事は、不渡り手形をだし、倒産した。負債総額は1億2千万円だったという。

虫プロ商事の倒産は、虫プロの存続に強く響くのは当然だ。
昭和47年いっぱいで「新ムーミン」と「国松さまのお通りだい」の2本が、昭和47年いっぱいで、終了し48年4月から始まった「ワンサ君」もその9月いっぱいで終わる予定だった。それが終わると虫プロの仕事の予定はない。
虫プロ商事の破たんは、虫プロ系全体の破産ととらえた金融筋は、虫プロへの貸し出しの道を閉ざした。
長い間、虫プロの作品を放映してきたフジテレビは既に門戸を閉ざしていたし、他のテレビ局も新たに発注することはなかった。
虫プロは終わった。川端社長を始め役員が金融筋に債権棚上げ交渉の努力もむなしく、「ワンサ君」放映終了後、11月5日、不渡手形をだし、負債総額3億5千万円を抱えて倒産した。

手塚を救出した男

手塚治虫は、虫プロ及び虫プロ商事の膨大な債務をすべて、個人的に引きうけていた。
今、手塚はその借金の山を抱えて、それには為す術なく、ただ連載中の漫画を描き続けねばならなかった。
天下の手塚治虫、何処に行く!
手塚の進退は極まった。
その時、一人の男が、手塚の目の前に現れた。この人は、大阪の実業家で、アップリカ葛西という育児用家具を製造、販売する会社の社長の葛西健蔵という人であった。
かつて、葛西社長の経営する会社が、苦境にあったとき、テレビの「鉄腕アトム」を商標として、そのキャラクター・マークを学童用机、椅子、ベビーカーにつけることを思いつき、その交渉に、手塚のところに来たことがあった。アトムのマーチャンダイジングである。手塚は快く許した。そのお蔭で、葛西の会社は繁栄に向かった。
その葛西が突然、現れたのであった。手塚は「どん底の季節」という文章で、次のように書いている。
「『手塚先生、アトムのときはお世話になりました。葛西健蔵です』
『どうも、お恥ずかしい次第で』
『なんぎなことですな、先生、私お世話になったお礼心です。この後始末には私が及ばずながらお手伝いします』
と、葛西氏は僕の肩を叩いた。
『こうなったら思いきった整理をしはることです。出来る限り、債権者や社員の皆さんに真心をもって債務を、お返しし、先生は漫画家に戻りなはれ。(中略) 自分が忙しすぎて経営のでけん会社やってくなんて、意味おへんで。それに自分の稼ぎを全部つぎ込んではるなんて無茶苦茶や』
そして葛西氏は、ご自分が債権者の一人でありながら、先頭に立って整理の指示を始めた」(「手塚治虫漫画全集別巻13 手塚治虫エッセイ集」講談社)

著者が見ることができた虫プロ関連の文献では、手塚の債務の条件、形態、金額、抵当権の内容、債権者名、などが、具体的には、どこにも書かれてはいなかった。したがって再建策、再生の方法も詳細には、なにも分からかった。
そこで手塚の著書「ぼくのマンガ人生」(岩波新書、1997年)に載っている、「闘争心が彼の再生の原動力だった――葛西健蔵さん、苦境時代の手塚治虫を語る」という葛西の談話筆記らしい十頁ほどの文章にある範囲で、抽象的であるが、再生の経過を探ってみる。
それによるとまず、過去の作品は勿論、これから描かかれるものをも含めて、漫画であれ、アニメーションであれ、文章であれ、手塚の全作品の版権を、すべてを葛西氏の所有とする法的な手続きをとった。
手塚の場合、普通の会社の倒産と違って、本人自身が財産であった。機材や、証書を抑えたりする以外に、手塚個人を抑えれば金になる。彼が描く物がお金になり、すでに描いたものがお金になる。手塚個人を抑えられてしまうと、手の打ちようもなくなる。だから、過去、未来の版権を葛西氏の所有にしたのであった。
次に手塚の実印は、手塚夫人に持って貰い、葛西の許可なしには、実印を押してはならないことにした。それまでは実印を押してほしいといわれると、簡単に押してしまったり、もっと考えてから、と思っても、資料の目を通す暇が取れず、結局印を押してしまうことになっていた。だからとんでもない借金があった。
葛西は手塚について次のように言う。「手塚はお金の計算ができない人です。100万円くらいのお金の計算はできるのですが、1億円となるともうわからない。そんな人が経営は、土台無理なのです。鍵のかからない金庫のようなものだった。」
そうして、金庫の口を押さえておいてから、誠実に返済の交渉をした。四百坪の大邸宅の土地建物を売り、オフイスを小さなところに引っ越し、その金を返済に回してゆき、時には、何十人かの債権者の前で、葛西は手塚に代わって土下座して、謝り、そして返済方法の交渉をした。返せる借金は徐々にでも返し、一部は出世払いということにしてもらったりした。こうして絶対絶名の境地から脱出する事が出来たのであった。
それは葛西氏にとっても、大変な事業であった。
「そんな『再生』という大事業は私にとっても大変な事業でした。手塚氏とは一心同体にならないとできなかったのです。おかしいことですが、彼から大阪に毎晩電話がかかってくる。すると僕が風邪をひいているときは、必ず彼も鼻声になっているのです。二,三日おきに東京に通いながら、そんなふうにして、本当に二人三脚で、問題を一つずつかたづけて行ったのです。」
と言っている。そして手塚が絶望の淵から立直れたのは家族の支えもあったろうが、本人の気迫、バイタリテーが、ものを言ったと葛西は結論付ける。
葛西が。二〇人もの債権者の前で、土下座をしている時のこと、葛西が手塚に一緒に立ち会いますか、と聞いた。手塚は、ぼくは漫画を描くしかできません、借金をそれでかえすしかないのです、と言って、隣のビルで漫画を描いていた。怖い債権者が数十人も押しかけてきて、借金返せと迫っているのだ。普通なら、怖くて、怖くて漫画なんか描けるものではないはずだ。この時債権者に詫びながら、手塚は本当に天才だと、葛西は思ったという。
富士見台の大邸宅を売り払って下井草の借家に移るとき、手塚から葛西に電話が掛かってきた。「明日、借家に移ります」と、晴れ晴れした声でいう。明日から新しい生活が始まるのだ、という切り替えの見事さ、頑張りを感じさせる決意の強さに、葛西は打たれたという。

それから、手塚は手塚プロに籠って、ひたすら漫画を描いた。そして「ブラックジャック」という人気作品を描き、人間の真髄を追求した「ブツダ」で、遅すぎた文春漫画賞を受賞した。
葛西は手塚プロの取締役となり、預かった版権を守り、徐々に版権を手塚名義に戻し、一〇年程で、全部が手塚名義に還ったという。
手塚亡きのちまで、手塚プロの後継者の松谷孝征は、葛西を取締役として厚く遇して、その恩義に報いたという。(この項終わり)

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