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“1月23日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1902=明治35年  厳寒の八甲田山踏破をめざす陸軍青森連隊210名が青森郊外を出発した。

青森に本営を置く第八師団歩兵第五連隊第二大隊の山口金吾大隊長に率いられた下士官、兵卒らで午前7時前、3日間の予定で駐屯地を出発した。途中の田茂木野集落で地元民が天候の悪化が予想されるとして行軍の中止と、それが無理ならと道案内を申し出たが下士官らが断ったとされる。午前中はどうにかもっていた天候は午後からは急速に悪化し強風と降雪がひどくなった。食料や燃料を積んだそり隊が2時間以上も遅れため装備を各自に分散したことで歩行速度はさらに遅れた。この時点で将校や軍医らは「暴風雪」になりそうだとしていったんは駐屯地への帰営を決めたが一部の兵たちは地元民に<大見得を切った>手前もあるなどとして続進を主張した。

本営には予定を過ぎても何の連絡もなかったが、行軍の遅れや、すでに八甲田山を通り過ぎて反対側の三本木=現・十和田市方面に抜けたのではないかという<楽観論>もあった。それでも取りあえずの情報収集を兼ねて26日になって60人の救援隊の派遣を決めた。田茂木野では悪天候で渋る案内人を「軍命である」として同行させた。最初のひとりが立ったまま仮死状態で発見されたのは翌27日の午前10時半。斥候の後藤房之助伍長でようやく遭難が現実となった。

その後、救助活動は青森、弘前連隊だけでなく仙台の砲兵隊からも出動して1万人規模で進められた。わずかに11人が凍傷を負いながらも生存していたが病院で亡くなったのも含め199人が死亡するという未曽有の大量遭難事件となった。最初に見つかった後藤伍長は八甲田山を望む遭難地点に建てられた記念碑に銅像が残る。重度の凍傷で両手両足を切断したが生き延び、地元宮城県で村会議員をつとめた。事件後、日露戦争を間近にしていた軍部は国民の批判を恐れて遭難者は靖国神社に祀り多くの<美談>を創り出した。

*1959=昭和34年  フランス政府に押収されていた「松方コレクション」の返還式が行われた。

造船など川崎コンツェルンの総帥だった実業家・松方幸次郎がイギリス、フランス、ドイツなどで収集した美術コレクションのうちフランスに保管されていた約370点で、サンフランシスコ講和条約での首相・吉田茂以来、フランス政府との間で9年がかりの返還交渉が続けられていた。

松方は昭和初期から潤沢な資金によって数千点ともいわれた膨大な美術品を収集した。1927年の世界恐慌で川崎造船所の経営が破綻し、国内コレクションは銀行の担保になり散逸、イギリスのロンドンにあったものは火災で焼失した。パリのロダン博物館にあったフランスコレクションはドイツ軍の侵攻によりパリ近郊に疎開させてあったが日本の敗戦でフランス政府に接収された。

返還の条件は<日本が美術館を建設し、そこに「寄贈」する>ことでようやくまとまり、パリのフランス外務省で返還協定の調印と引き渡しが行われた。6月13日から国立西洋美術館で開催されたコレクションの「里帰り展」は1ヶ月間で約9万人の観客でにぎわった。美術館側は「寄贈返還」という<新語>を編み出し、パンフレットや図録などには「フランス政府から寄贈返還された松方コレクション」と掲載したからこちらも話題に。

松方はコレクションの行方は知っていただろうが返還交渉や著名美術家などが作品を寄付して始まった美術館建設のための「1億円募金運動」、フランスの著名な建築家、ル・コルビジェによる美術館設計などのいきさつを知ることなく1950=昭和25年に他界した。

*1910=明治43年  神奈川・逗子沖で逗子開成中学生らのボートが転覆、13人が死んだ。

午後2時ごろ、逗子海岸の葉山沖で少年がオールにつかまって漂流しているのを通りかかった漁船がたまたま見つけた。少年はすでに死んでいたが急報を受けて直ちに小坪漁港の漁船が出動、その後は海軍の水雷艇なども出て遺体捜索が行われ中学生12人と小学生1人を見つけた。生徒らは学校には無断で葉山の艇庫からボート「箱根丸」を引き出し江の島で昼食をとり戻る途中て高波でボートが浸水転覆して海に投げ出された。当日は地元の出初め式で漁に出ていた漁船が少なかったのも発見が遅れた原因とされている。

  真白き富士の嶺 緑の江の島
  仰ぎ見る目も 今は涙
  帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
  捧げまつらん 胸と心

鎌倉高女の音楽教諭だった三角錫子が作詞作曲し、2月6日に行われた合同法要の席で教え子の女学生が合唱した「哀歌」は参列者の涙を誘った。これが新聞に報道されると演歌師が歌い広めるなどで「七里ヶ浜の哀歌」として愛唱された。小学生は兄に誘われて同乗していたが歌詞では逗子開成中学の生徒12人となっている。

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