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“7月23日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1842=天保13年  幕府は異国船への「天保薪水給与令」を発した。

<無二念打打払令>といわれた悪評の1806=文化3年の「異国船打払令」に代わるものとして施行された。「漂流して飲料・薪水を乞う異国船を事情も聞かずに打ち払うのは万国に対する処置ではないので、帰国できないようならば、飲料・薪水を与えて帰帆させるように」としたものである。

きっかけは1837=天保8年に浦賀に来航した「モリソン号」を砲撃した事件だった。当初はイギリス船と思われたため浦賀奉行が「異国船打払令」に基づいて砲撃して追い払いその後に寄港した薩摩でも同じ扱いを受けた。1年後にアメリカ系貿易会社の船で、しかも非武装の商船でありマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉ら7人をわざわざ送り届けにきたことが判明した。これに蘭学者の渡辺崋山や高野長英が幕府の政策を非難する著書を出して逮捕される「蛮社の獄」が起きた。

名前を挙げた音吉や蘭学者2人の人生は何冊もの本になっているが、そもそも「モリソン号」はなぜ砲撃されたのか。船尾にはアメリカ国旗がちゃんと掲げられていたし、浦賀奉行は「見届け船」まで出して偵察させている。奉行の立場としては詳細に幕府の指示を仰ぐより先に「異国船打払令」をタテにとにかく<先送り>したかったのは間違いない。前線指揮官はそれが自分の役目とせざるを得なかったのだろう。

*1944年  作家のアンドレ・マルローがゲシュタポに危うく処刑されそうになった。

フランスのレジスタンス運動に身を投じていたマルローは捕まっていたドイツ秘密警察のゲシュタポ拠点からレジスタンスメンバーに救出されて九死に一生を得た。第二次世界大戦が始まるとフランス軍に入り戦車部隊の兵士になった直後にドイツ軍の捕虜となって脱走したからこれで2度目だった。しかし懲りることなく9月には自由フランス軍のアルザス・ロレーヌ旅団司令官となり、ストラスブールやシュトゥットガルト防衛戦に参加した。ここで出会ったのがド・ゴール将軍。1958年のド・ゴール政権成立ではマルローは情報相、その後、文化相を歴任した。

フランスの大臣としてはじめて来日して熊野・那智大社や伊勢神宮に参拝するなど日本文化に深く親しんだことでも知られる。昭和天皇を表敬した際には「特別特攻隊の若者たちが命を捧げたのは祖国を憂える貴い熱情と代償を求めない純粋な行為で、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナティズムとは根本的に異質である。人間はいつでも偉大さへの志向を失ってはならない」
とデカルトを生んだ合理主義の国の文化相としては異例ともいえる発言が話題になった。

「母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうかという一点で私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、 いさぎよく敵艦に体当たりをした彼らの精神と行為のなかに男の崇高な美学を見ます」
というレジスタンスを戦い抜き、何度も死線をくぐった文人マルローのことばに陛下は深くうなずかれたという。

*1918=大正7年  東京初の路線バスの営業免許が民間の東京市街自動車に出された。

先に申請した東京市は「公共機関に任せるべき」と批判したが挽回できなかった。翌春、3月1日から新橋―上野間で開業するが青色に塗られた箱型自動車から「青バス」の愛称で親しまれた。

*1958=昭和33年  大宅壮一が『五十万の竹槍兵団日教組』を雑誌『日本』に書いた。

『日本』は講談社発行で9月号のトップで<本紙独占>だった。新聞広告を紹介すると
「それは果たして模擬革命の予行演習か、日夜闘争する悲劇の共和国・日教組!その思想と背景はどの色に染まっているか。真の民主主義教育を実現するために、ここに全貌を明らかにする」となかなか勇ましい。

大阪高槻の醤油屋の三男坊は戦後、社会評論家として頭角をあらわすがイデオロギー的な表現を嫌い「無思想人」を自称した。「雑草主義」を掲げ毒舌・反骨に徹してマスコミで活躍した。大宅が作った<造語>は世相をズバリと言い表わしていると評判になった。

一億総白痴化、駅弁大学、顔は履歴書、恐妻、口コミ、太陽族ときて「緑の待合」ってなんだっけと調べたら接待ゴルフのことだった。

『週刊文春』の対談などで面識のあった三島由紀夫の割腹自殺の3日目前(1970=昭和45年11月22日)に70歳で病没。「彼のコメントが聞きたかった」と残念がられました。

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