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“11月13日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1971=昭和46年  女優・岡田嘉子が34年ぶりに亡命先のソ連から帰国した。

時間を巻き戻してみよう。1938=昭和13年1月3日、岡田は愛人の杉本良吉と日本領だった北緯50度の樺太(現・サハリン)へ国境警備員の慰問に訪れていた。数か所を回り、国境の標識を見学したいと馬そりを雇って出かけた。夕方5時半過ぎに杉本が突然、上着のポケットにピストルを持っているかのように装って御者を脅し、その隙に手を取り合って暮れなずむ国境の雪原を越えて姿を消した。岡田は38歳、杉本は32歳だった。

報告を受けた樺太庁と警視庁の特高課はソ連側の動きを注目した。当時、国境線を越えた日本人は逮捕されて重刑を科せられるのが普通だったがソ連側には何の動きもなかった。<恋の逃避行>は<計画的亡命>だったのか。亡命ならば日本における最初で最大の事件だけに日本中が驚倒したが2人の消息は以後プツンと途切れていた。

岡田は新聞記者の娘として1902=明治35年、広島市にオランダ人の血を引く祖母からのエキゾチックな美貌を継いで生まれた。東京の美術学校を卒業すると父親が主筆に招かれた小樽の新聞社での婦人記者をしたあと上京、新劇の世界に飛び込んだ。舞台と平行して映画出演を続け日活女優として一躍スターとなった。多くの作品に出演し女優の人気投票でトップとなる一方で奔放な恋の話題も途切れず<スキャンダル女優>といわれた。やがて所属していた左翼劇団の演出家だった共産主義者の杉本と激しい恋に落ちる。過去にプロレタリア運動に関わった杉本は執行猶予中で、しかも病身の妻がいた。

時の流れはある意味残酷である。事件発生当時は連日、日本国中を騒がせた2人もとっくの昔に忘れ去られていた。岡田の生存がわかったのは1952=昭和27年に訪ソした女性国会議員が面会したことを伝えたから。岡田はモスクワ放送局で日本語放送のアナウンサーを務め、11歳下の日本人の同僚で戦前の日活の人気俳優・滝口新太郎と結婚して穏やかに暮らしていた。1968=昭和43年には日本のテレビ番組でモスクワの赤の広場からの中継に登場、往年と変わらない姿を見せて日本中を驚かせた。そして美濃部東京都知事らの働き掛けで帰国が実現した。

以後14年日本で暮らし、芸能界にも復帰して映画や舞台、テレビドラマ、バラエティ番組にも出演した。自身が作詞した『アザミの花』も沢田亜矢子らが歌ってヒットした。

  むかし、むかし、その昔
  アザミの花の咲いた道
  アダムとイヴの会った道

岡田はすべての<アダム>を失っていばらの道を歩んだ。ソ連でのペレストロイカ改革が始まると「やはり自分はソ連人だから、落ち着いて向こうで暮らしたい」と再びソ連へ戻り、二度と日本の土を踏むことはなかった。1992=平成4年、モスクワの病院で89年の波乱に満ちた生涯に幕を閉じた。

では<アダム>のひとりだった杉本はどうなったのか。入国した2人はスパイの疑いをかけられた。裁判でそれを認めざるを得なかった岡田は有期刑で長く収容所に入れられた。否認し続けた杉本は「獄中で病死」とされていたが1939=昭和14年にスパイとして銃殺刑となっていた。岡田が釈放後も日本に帰国しなかったのもそれを聞かれたくなかったからかもしれないが詳しく語ることはなかった。

*1695=元禄8年  将軍綱吉が武蔵国中野村に犬小屋を築き江戸中の<無宿犬>を収容した。

<無宿犬>とは野犬のことで犬小屋は「野犬収用施設」である。敷地30万坪(99ヘクタール)に25坪の小屋を290棟と日除け場、子犬養育所が立ち並び「犬屋敷」とか「御囲(おかこい)御用屋敷」ともいわれ犬奉行の下に数十人の犬同心を置いて世話をさせた。最盛期には8万頭が収容され年間9万8千両にも上る費用は関東諸藩の負担だった。「生類憐みの令」の弊害はこれだけでもすごいが飼い犬には「犬毛付書上=毛並み調査報告書」の提出まで求めたというから<お犬様>がいちばん大事だったわけである。

敷地はいまのJR中野駅から高円寺駅あたりまで。中野サンプラザや区役所、警察学校などもすっぽり入った。現在の中野4丁目の旧名は「囲(かこい)町」で中野税務署の北側に「囲町公園」が残る。<犬公方・綱吉>の死後、犬小屋は廃止され、将軍吉宗は跡地に梅を植えさせた。茶店も11軒でき梅見の遊客でにぎわったが『江戸名所図会』は「弥生のころ紅白色をまじえて一時の奇観たり」と伝えているのは桃園町の地名に残る。

*1918年  オーストリア皇帝カール1世が<退位表明>にあたる「国事不関与の声明」を出した。

第一次世界大戦でのオーストリアの敗北が明らかになり11月3日の休戦に続きこの日、シェーンブルン宮殿内の「青磁の間」で声明を出して宮殿を去った。700年余り続いた名門ハプスブルグ家のオーストリア支配は終焉を迎えた。

カール1世はその後、ハンガリー王国における主権取り戻しにも失敗、1922年、亡命先のポルトガル領マディラ島で肺炎のため35歳で死去した。

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