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書斎の漂着本(62) 蚤野久蔵 復刻版・戦前広島市街地図

70年前の昭和20年(1945)8月6日、広島に人類史上初めての原子爆弾が投下された。今年も巡ってきた平和式典のニュースを見ていて数年前に入手した広島の古書店・あき書房が発刊した戦前地図の復刻版があったのを思い出した。

最初に紹介するのは昭和14年に東京・渋谷区の東京交通社から発行された大日本職業別明細圖シリーズの「大廣島市」で、地図名の右脇に「昭和十四年三月十八日陸軍運輸部検閲済」と印刷され、ご丁寧にも左の余白に同じ文言の赤スタンプが押してある。原寸大で復刻され、縦59センチ、横84センチの三色刷り、官公庁や会社、商店だけでなく地名や番地が詳細に掲載されている。

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原爆投下当日:午前2時45分ちょうどにマリワナ諸島、サイパン島の南西、テニアン島の北飛行場を飛び立ったB29爆撃機「エノラ・ゲイ」は気象観測任務の他の同型機2機とともに第1目標の広島に向かった。悪天候の場合は第2目標が小倉、第3目標が長崎とされていた。広島での投下目標は、市中心部の本川と元安川の分岐点に架かる相生(あいおい)橋で、当時国内では例のない「T字型」のユニークな構造だった。

その部分がこちら。「新相生橋」と「新」がついているのは、同じ位置にあった木製の電車専用橋が大正8年7月の豪雨による増水で下流にV字型に架かっていた二橋とともに流されたのを、昭和7年に鋼鉄桁の道路併用橋に架け替えられたことによる。二年後の昭和9年には橋の中心から中島地区北端の「慈仙寺鼻」に向けて南北の連絡橋部分が完成した。ふたつの木橋は昭和13年4月から撤去工事が始まり、同15年に完全撤去されたが、地図は工事の完成を<見込んで>印刷されている。

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橋のすぐ右下、元安川東岸にあるのが世界遺産となる現在の原爆ドームの旧広島県産業奨励館である。橋の南側一帯の中島本町は幕末から明治時代にかけては市内有数の繁華街だったが、その中心が東の八丁堀や流川に移るとともに民家が広がった。繁華街の名残のように薬局、洋裁店、写真館、歯科医院に混じって旅館や割烹料理店が見える。橋の東側には商工会議所、日本赤十字社広島支部、護国神社がある。写真で広島駅、県庁、市役所、商工会議所、広島城、産業奨励館、福屋デパートや帝國ミシン広島支店などが紹介されている。ところが広島城を中心として大きな面積を占めていた陸軍第五師団司令部、砲兵、輜重の各隊や、ここで行われた大相撲広島場所、博覧会、サーカスなどが市民の人気を集めた西練兵場、陸軍病院、士官官舎などは空白のままで憲兵隊本部だけが表示されている。同じく空白なのは広島駅北西側の騎兵連隊や北東の東練兵場の一角にあった軍の最重要拠点の第二総軍総司令部、比治山の東側、東新開町の兵器廠、同じく南側、皆実町の被服廠と電信連隊、市南部にあった江波射撃場、宇品港埠頭の陸軍運輸部なども空白で、厳しい検閲はこれらの軍関係施設を地図に一切表示させないための措置だった。

もう1枚は翌昭和15年に広島市の金正堂書店から発行された「番地入大廣島市街地圖」で、一回り大きい縦64センチ、横93センチの五色刷り。右の欄外に「昭和十五年三月八日陸軍運輸部検閲済」の赤スタンプが押してあるのがお分かりいただけるだろうか。南北に走るのが国鉄芸備線、東西が山陽本線で左下の先で広島駅に入っていく。

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こちらには東京交通社版のような写真や官庁、会社、商店名はないが、名前の通り番地が詳しく掲載されている。同じく軍関係施設は全て空白で、西練兵場に面していた憲兵隊本部は<軍関係>とされたのか削られているのがおもしろい。検閲でも見落とされたのか。私が興味を持った相生橋は、出版元が地元だけに検閲申請の時点での橋の現状通り、新旧共存の<寝かせたH型>である。手っ取り早く説明すると数ヵ月後には「相生橋」とある旧橋二つが撤去されてT字の「新相生橋」だけになった。

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改修後の(新)相生橋は、大戦後半、日本が制空権を奪われてから何度も侵入を許すことになった連合軍の偵察機によって軍関係施設や軍需工場とともに写真撮影されていた。

書斎にある「戦争・原爆関係文献」の一冊、『エノラ・ゲイ―ドキュメント原爆投下』(ゴードン・トマス、マックス・モーガン=ウィッツ共著、松田銑訳、TBSブリタニカ・1980)から引く。

日本時間8時15分、広島上空に差しかかったエノラ・ゲイ:進路二四六度、真西から心もち南寄り、高度三万一〇六〇フィート(9,467m)、時速二〇〇マイル(321.9Km)。

空中偵察写真の白黒の像が色彩のある像に変わって展開していた。緑と柔らかいパステル色と、建物のくすんだ色とが、大きな人の指のような形の陸地の上にぎっしりと並び、広島湾の濃青の海の際まで連なっていた。太田川の六本の分流は茶色であった。市内の主要な街路はにぶい金属的な灰色に見えた。薄い紗のような靄が市の上空にかすかに光っていたが、爆撃手・フィヤビーの視界を曇らせはしなかった。照準点のT字型の相生橋がまさに彼の照準器の中心の十字線のところに来かかっていた。

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