1. HOME
  2. ブログ
  3. 池内 紀の旅みやげ(33)牛乃乳─長野県須坂

池内 紀の旅みやげ(33)牛乃乳─長野県須坂

牛乳は江戸時代にも薬用として一部の人には飲まれていたようだが、一般にひろまったのは、幕末・明治にかけて外国人から効用を教えられて以後である。明治政府は北海道開拓にあたり畜産奨励を柱にしていたので乳牛にも力を入れた。乳を搾(しぼ)るのを、当時は「搾乳(さくにゅう)」といったが、いずれのびる職種と考えたのだろう。山県有朋、副島種臣といった要人たちは牧場を手に入れ、搾乳業を経営していた。

ひところまで新聞配達と並んで牛乳配達が早朝の町の風物詩だった。はじめブリキ缶だったのが、明治の半ばすぎにガラス瓶使用が義務づけられた。そのころすでに牛乳が、かなり普及していたのだろう。明治三十年代の「風俗画報」にミルクホールが出てくる。牛乳を注文すると、そなえつけの新聞が自由に読めた。カフェの役まわりを果たしていたらしい。

しかし、そういったことは東京でのことで、ハイカラが表看板の首都ではおなじみでも、地方ではどうだったのだろう。肉食とのつながりから、相当の抵抗があったのではなかろうか。

須坂市の牛乳屋の看板。時代を感じますね。コテ絵が不思議な味わいを感じさせる。

須坂市の牛乳屋の看板。時代を感じますね。コテ絵が不思議な味わいを感じさせる。

長野県須坂市で古い牛乳屋の看板と出くわした。たたみ一畳分に近い大きなもので、コテ絵で乳牛が浮き彫りになり、大きな乳房に子牛がしゃぶりついている。母牛が鉢巻をしているところがおかしい。上に大きく「牛乃乳」、左に「坂本屋」。もともとは店の二階壁にはめこまれていた。廃業後、建物が取り壊しになったとき、ワクごと取り外して旧郡役所に移された。

「須坂は近代シルクロード起点の町です」

町のパンフレットが高らかにうたっている。かつて北信濃一円の繭(まゆ)が当地に集められ、美しい絹糸になって高崎、ついで横浜へのコースをたどった。さらに海上の道を経て世界中へ送られた。とすると「近代シルクロード起点の町」に嘘いつわりはないのである。

善光寺平(だいら)の東にあって、上州に通じる大笹街道と草津とを結ぶ街道が分岐している。繭蔵をもつ町家が軒を並べ、手びろく物産を扱う大商人が生まれた。そんな町であれば、牛乳の効用も早くにつたわっていて、坂本屋のような牛乳店が生まれたのだろう。雄大なコテ絵の看板が、かつての店の繁盛ぶりを伝えている。

須坂のある辺りは、上高井郡であって、大正六年(一九一七)、大笹街道から少し入ったところに郡役所がつくられた。木造二階建て、寄棟造り、瓦葺の洋風建築で、外壁は淡い緑色。正面玄関の車寄せの上にテラスをそなえ、切妻破風の飾りがほどこしてある。旧制松本高校の建物とよく似ているのは、同じころ、同じ職人集団によってつくられたからではなかろうか。

信州は上高井郡の郡役所。シャレた建物はこうして残してこそ、価値が出てくる物ですね。

信州は上高井郡の郡役所。シャレた建物はこうして残してこそ、価値が出てくる物ですね。

明治政府はヨーロッパを手本にして市制と合わせて郡制を採用したが、ヨーロッパとはちがい、郡に課税権を与えなかった。中央集権をすすめるに際して、国土のおおかたを占める郡が強力になって自治を主張するのを恐れてのことと思われる。

財政の裏づけのない行政は名ばかりであって、土地の名士が名をつらねるだけの郡役所は、経費がかかるわりに意味がない。上高井郡役所はわずか実働九年で廃止。建物は県事務所、保健所などに転用され、現在は須坂市教育委員会の運営になり、市誌編さん室、史料整理室、市民交流室にあてられている。二階は多目的ホールで、会議や催しに使える。市民会館としては全国でも指おりの美しい建物であって、大正のころの須坂市民が気前よく立派な郡役所を建てたのはムダではなかったわけだ。そんな建物の玄関フロアに滋養満点の「牛乃乳」の大看板がある。もっとも望ましい位置に落ち着いたといえるだろう。

かって栄えて古い財産がどっさりある町には、地方史家とよばれる民間学者がおられるもので、廊下の窓越しに史料整理室がよく見える。年輩の三人ばかりがおもいおもいに文書類をわきにおき、調査に余念がない。昔はカビたような古文書をひろげたのだろうが、現在はすべて写真撮影されており、パソコンであたっていく。威厳のある白髪頭が、じっと画面を見つめ、おりおりメモをとる。大正モダンの建物と、昭和ひとけたの年輩組と、最新の電気メディアが、それなりのバランスで調和し合っている。「牛乃乳」の母牛が、大きな顔を振り向けて、無心の目で見守っているぐあいなのだ。

【今回のアクセス:長野駅より長野電鉄で約二十分の須坂駅より、徒歩約十五分】

関連記事