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書斎の漂着本  (27) 蚤野久蔵 奄美の島々

奄美群島は昭和28年(1953)12月にようやく本土復帰を果たした。その当時の様子をよく伝える写真集『奄美の島々』は31年(1956)年4月に毎日新聞社から出版された。黒潮に沿った島々での民俗に関心があったので表紙で紹介された女性の頭上運搬に目がとまって手に取ったが、徳之島の闘牛の写真もあって迷わず購入した。東京時代に買ったがどこでだったか。表紙も破れているから売れなかったらそのまま廃棄処分にされていただろう。

『奄美の島々』毎日新聞社『奄美の島々』 毎日新聞社

鹿児島県のいちばん南にあるのが奄美群島で、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島が北東から南西にほぼ一直線に並び、奄美大島の東に喜界島がある。与論島のすぐ隣は沖縄本島で、奄美諸島などと表記された地図もあったが、4年前に国土地理院により正式名称の奄美群島に統一された。最大の島である奄美大島の北部に中心都市の奄美市名瀬がある。こちらも以前は名瀬市だった。

写真集は人類学会、民族学協会、地理学会など国内の9学会から構成される「九学会連合」が共同で行った対馬、能登でのフィールド調査に続く奄美大島調査の報告である。戦前は盛んに行われた海外植民地や占領地での調査も敗戦でその全てが失われ、学術体制自体も崩壊するなかで、乏しい研究費をやりくりしてようやく実現した大規模調査だった。本土復帰の翌々年の30年7月から1か月がかりで行われ、調査のニュースはマスコミでも大々的に報道された。それだけに調査地域の人々も大きな期待をもって調査団を受け入れた。フィルムも亜熱帯での使用に耐えるように試作され、調査委員18人が撮影した写真は計9千枚にのぼった。電灯の暗い夜間には1,500発ものフラッシュ球を使用したのはストロボ全盛の現在からは想像できない。

調査当時は、まだ沖縄返還前だったので奄美へは鹿児島からの船便しかなく、写真集はたくさんの紙テープで調査団の出発を見送る鹿児島港の風景から始まる。

名瀬:鹿児島から南方205マイル(330キロ)17時間。大島本島の西北部に位置する自然の良港。船が港に近づくにつれて港の中央にぽつりと岩礁が浮かんで見える。立神岩である。島の人々にも、島に旅する人々にも、名瀬の町の印象とともに忘れえぬ岩である。

名瀬は人口約4万人、群島唯一の市。行政、経済の中心であり、島への一切の文化はここを中継として島々に運ばれる。大島支庁、警察、郵便局、市役所などの公庁、デパートなどがある。だが、市街の大半は1955年12月の大火で焼失した。

調べてみたら12月3日午前4時50分に中心部の料理店から出火、おりからの強風にあおられて市全体の3分の1に当たる1,413戸を全焼、30名余りが重軽傷を負い、約6,600名が焼け出された、とあった。手元にあるいくつかの歴史年表には掲載されていないから、これほどの大火でも<離島のできごと>として報道はされなかったのだろう。

集落(しま):大島本島、徳之島はほとんど全部が山岳地帯で山は海に迫り、耕地に乏しく、部落はほとんど海岸に面したわずかな狭い土地に作られている。サンゴ礁でできた喜界、沖永良部、与論の島々は土地が平坦なため農耕地も多く、部落は島の中に点在している。

台風に備えて山陰にある家々(徳之島亀徳)

台風に備え山陰にある家々(徳之島亀徳)

奄美の部落を眺めるとこの島の独特な形の屋根に気がつく。台風や激しい季節風に備えて、棟には押えが施され、家々は互いに密集して風を防いでいる。また部落の周囲も石垣や榕樹(ようじゅ=ガジュマル)などに囲まれていることが多い。各戸は、住居と台所が別棟になっているところが本土の農家と異なっている。風に耐えるため家の柱や桁にも独特の構造が工夫されている。

戦争中米空軍の爆撃を受け、大部分の部落は壊滅したが、戦後復興し、それとともに古い形の家に混じって近代風の家も並ぶようになった。



高倉の前での農作業(宇検村)

高倉の前での農作業(宇検村)

高倉:高倉は奄美名物のひとつである。穀物倉庫で、収穫した農作物は大切にここに保存し、ねずみの害から防ぐ。太い高い柱はねずみが登れないのである。柱は普通四本であるが、六本のもの、時には九本のものもある。柱の上には桁が設けられ、床が設けられ上には直に屋根がかぶさっていて壁がないのが特徴である。工作に当たっては釘は一本も用いられず、全部組み合わせである。一見不安定のように見えるが、きわめて堅固で、暴風にもよく耐える。また構造上風土的特質である高湿度も防いでいる。近年になってコンクリート建ての倉庫がこれに代わる傾向があり、だんだんその数が減ってきている。



ノロ神(右)を拝む村長たち(名瀬市大熊)

ノロ神(右)を拝む村長たち(名瀬市大熊)

ノロ:約七百年前の琉球王の統治下に施行された祭祀制度であって、当時は那覇の王宮へ行って直接任命されていた。村単位にノロがいて、王妃が任命、直轄する制度であったので、薩摩藩島津の統治下では厳重に取り締られた。ノロの祭は男が全く見てはならない女だけの秘儀なのである。写真やテープに撮るのはもってのほかと部落の女性たちから応諾が得られなかったが世話役の男性総がかりで説得してくれて、祭の前夜の十一時過ぎにやっと「祭の場の神聖を汚さない」という条件付でOKを得た。


祭村芝居:加計呂麻島諸鈍(しょどん)では夏の稲刈りが終わったころ、村芝居が行われる。村人はもとより、離れた小島から舟で押しかけて来た見物人たちは広場の木陰をぎっしり取り巻いている。素朴な大太鼓のひびきで演じる野外劇はリズミカルで動きが活発だ。室町時代前後の念仏踊りや沖縄の素朴な芸能が入り混じっており、奄美文化の特色の一部を示している。

最後に紹介するのはこの写真である。

実家風景瀬戸内湾に面した村(本島宇検)という説明に紙が貼ってあり「この〇印が私の家です。今は母の母が居ります。向こうの山が枝手久島、山と海にかこまれた所です。海はちょっと海の様な感じは致しませんでせう。左側のカヤブキは大島でいう高倉で畠がバナナ園になっております」と書かれている。

〇印 は右下のま新しい白っぽい屋根に付けられている。

他に便箋2枚がはさまっていて、そちらには「秋田在住の井上さん」に宛てたものだ。井上さんが大きな被害が出た31年8月の台風9号について心配して出した手紙への返信のようである。大島はさほどの被害もなかったけれど、ちょうど友人に長く貸したままになっていた奄美の島々の写真集が戻ってきたので送りますとして

「宇検村は私が女学校へ行くまで育ったところです。ハブがとっても多くて襲来にあったことは一度や二度ではありません。私が大島で一番怖いのはハブです。この小さな集落も空襲で焼け野原になりました。戸数百戸ほどですもの。爆弾を二つも落されると全滅でした。あの時のことを思うと身震いします」とある。他にも「8月19日は旧の盆でしたので田舎に行き、父の墓参りをして昨日帰ったばかりです。盆踊りがとってもにぎやかでした。大島の暑さはまだまだこれからです。市内を歩く人々の肌も汗でびっしょり、完全に暑さに参った格好です。秋田の方はそろそろ涼しくなる頃ですわね。こうしてペンを走らせている間でも暑くてやりきれないのです。本当に秋田の方々が羨ましいと思います。そういうことでまた後便とします。サヨウナラ のぶ子」

詮索するわけではないが、手紙の相手の井上さんは男性で、他にも婦人警官の名前などが出てくるのでどこかの警察にいた人物で、定年後?に故郷の秋田に帰郷したのか。のぶ子さんは元同僚らしく、お父さんが亡くなったので、母親の住む名瀬に帰り、何か<臨時の仕事>をしている。ハブの多いことや戦争についてこの手紙に書いたということは、一緒だった職場では故郷・奄美の話はほとんどしなかったようだ。また秋田は<一足早く涼しくなっているから羨ましい>わけで、その分、冬は厳しいのだから行ったことはなさそうだ。ウーム、ていねいな文章の割には「サヨウナラ」はなんか不釣合な気もする。

写真集は奄美から秋田に旅をして、巡り巡って私が入手した東京の古書店に流れて来た。なぜかこの手紙も一緒に。まさしく漂着していたわけですねえ。

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