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“7月14日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

1867=慶応3年  三河国(愛知)で「ええじゃないか」の民衆騒ぎが起きて全国に広まった。

幕府の命運もいよいよ極ったこの日、三河国渥美郡に伊勢神宮の御札が降ってきた。いまの豊橋市あたり、民衆はこれを<慶事の前触れ>に違いないとして「ええじゃないか」と囃しながら踊り回った。これが近郷近在の村々に飛び火していき翌年4月にかけて東海道から江戸へ、近畿から中国、四国へと広がった。

倒幕派の<陽動作戦>だったのではとか、幕府が巧妙に仕掛けた<ガス抜き>だったのではなど諸説はあるが民衆は「ええじゃないか、ええじゃないか」と狂喜乱舞するというふしぎな<社会現象>は農繁期の到来とともに自然消滅していった。

そういえば伊勢の「赤福餅」のコマーシャルソングに使われてたなと考えていたら、富士急ハイランドのジェットコースターを思い出した。06年に誕生してギネスブック掲載で話題になりました。その名も「ええじゃないか」。日本で初めてループやひねりに加えて座席全体が前後に回転する<四次元コースター>である。「前後左右、東西南北、驚天動地の大回転」がキャッチフレーズで、ギネス記録のほうは「足が頭より上にくる回数が14回」と公式表現だった。乗客は「ええじゃないか」を絶叫しながら楽しむのだそうで、何だか疲れそうだなあというのが感想。

*1871=明治4年  西郷隆盛を筆頭参議とする明治政府は「廃藩置県」を断行した。

この大改革を危ぶむ声も多かったが、西郷の「反対論者はおい(自分)が兵を率いてでも断固討ち申そう」という強い決意に動かされた。主な目的が欧米列強による<植民地化>を避け、中央に権力を集めて年貢=税金をまとめられるという半面、全国では200万人にものぼる藩士の<大量解雇>につながる予想もあった。一方、軍制面でも各藩派遣の混成部隊だったから薩長を中心とした新政府との対立が渦巻いた。

これに先立つ1869=明治2年6月17日には274大名から「版籍奉還」が行われ、土地と人民は政府の所轄となったものの各大名は藩知事(知藩事)として引き続き自分の元領内の統治にあたることで幕藩体制をそのまま引きずっていた。一方、天領や旧旗本支配地などは政府直轄地として府と県が置かれたが藩との境界は複雑に入り組んで非効率だった。さまざまな駆け引き、密儀に次ぐ密議、そこには謀略も渦巻いてまさに権謀術数のすべてが火花を散らせた、と<略して>おく。

この日、天皇は在京の56人の藩知事を宮中に召集して「廃藩置県」の詔書を一方的に下達した。

「朕惟フニ・・・今更ニ藩ヲ廃シ県ト為ス・・・冗ヲ去リ簡ニ就キ、有名無実ノ弊害ヲ除キ・・・汝群臣ソレ朕ノ意ヲ体セヨ」まさに“有無を言わせない”内容だった。

以後、1945=昭和20年8月15日の「終戦の詔勅」まで<朕惟フニ>の時代が続きます。
このときの県は3府302県、それが11月までに3府72県に。府の数はそのままだったが明治6年に60県、9年に35県、12年に琉球藩が廃止され沖縄県に、19年に北海道庁が置かれたことで22年に1道3府43県とようやく落ち着いた。

*1789年  フランス革命のはじまりとされる「バスティーユ牢獄襲撃」が起きた。

早朝から民衆が押し掛けたのは武器・火薬の調達と市中に向けられていた城塞の上の大砲を引っ込めてほしいという2点で住民の代表が交渉に入り、司令官の了解を取り付けた。ちょうど昼時だったので食事に誘われた。外にいた群衆は彼らの戻りが遅いのでやきもきするうちに<何かあったに違いない>となって塀を越えて忍びこんだひとりが城門をあけ、群衆がなだれ込んだのに驚いた守備兵が発砲して大混乱になる。これがハプニング説。

学生運動華やかなりし頃は「バスティーユは絶対君主制のシンボルで、そこには多くの政治犯が捕まっていたので<奪還>を狙って襲撃した」という一種の神話が語られたこともある。しかし解放された囚人の7人が非行貴族、文書偽造犯などで政治犯はひとりもいなかったし、民衆が占領したのもあくまで<結果的にそうなった>とされているようだ。

中世のパリは城壁で囲まれた城塞都市でバスティーユはその内郭のひとつだった。30メートルの城壁と8つの塔を持つ堅牢な建物は政治犯などを収容するにはぴったりとして牢獄に転用された。人間だけでなく<危険視>された物は勅命逮捕状さえあれば収容されたので「百科全書」が入れられていたこともある。まさに「そんな物まで!」である。襲撃の知らせは直ちにヴェルサイユ宮殿の国王ルイ16世のもとに伝えられた。

国王が「暴動か」と問うと側近が「いいえ陛下、これは暴動ではありません、革命です」と答えたというよくできた逸話が残されている。炎上で焼け落ちたバスティーユは再建されることはなく間もなく解体処分される運命に。

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