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“9月25日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1881年  中国の文学者・魯迅が浙江省紹興に生まれた。

本名は周樹人。知識人の家は没落、困苦の少年時代を送ったが1902=明治36年に官費留学生として来日し青年時代の7年間を過ごした。仙台医專=現・東北大学医学部の恩師・藤野厳九郎の思い出を綴った『藤野先生』や太宰治が医專時代の周青年=魯迅を描いた『惜別』でわが国にもなじみが深い。在学中に見た日露戦争のニュース映画で軍事スパイとして処刑される中国人に喝采を送る同邦人の映像を見てショックを受けた。暗黒の中国を救うのは医学による治療ではなく、文学による精神の改造をめざすべきであると文学者への志向を強めるきっかけになった。

『藤野先生』では恩師をこう紹介している。
「私の講義、ノートが取れますか?」と彼は訊ねた。
「どうにか」「見せてごらん」私は筆記したノートを差し出した。彼は受け取って一両日して返してくれた。そして、今後は毎週持ってきて見せるようにと言った。
持ち帰ったノートを開いて驚いた。同時にある種の困惑と感激に襲われたのである。
ノートは、はじめから終りまで、全部朱筆で添削してあり、たくさんの抜けたところを書き加えただけでなく、文法の誤りまでことごとく訂正してあった。
このことが彼の担任だった骨学、血管学、神経学の授業全部にわたって続けられた。
なぜか私は、今でも彼のことを思い出す。
わが師と仰ぐ人のなかで彼はもっとも私を感激させもっとも私を励ましてくれたひとりだ。私はよく考える。彼が私に熱烈な期待をかけ、辛抱づよく教えてくれたこと、それは小さくいえば中国のためである。中国に新しい医学の生まれることを期待したのだ。
大きくいえば学術のためである。新しい医学が中国に伝わることを期待したのだ。
私の目から見て、また私の心において、彼は偉大な人格である。その姓名を知る人がたとえ少ないにせよ。

口語体で書かれた画期的な作品として高い評価を受けた『阿Q正伝』や『狂人日記』の代表作をはじめ社会悪の根源を鋭くえぐる多くの著作を残した。反動政権支配下の北京を脱出して上海の中国左翼作家連盟を中心に活動、帝国主義のほか非人民的なものに果敢に抵抗して抗日統一をめざしたが病に倒れた。東北大学医学部に残る医專時代からの階段教室が中国人観光客の<観光スポット>になっている。魯迅がいつも座っていたのは中央ブロック、前から3番目の右端。キャンパスには「魯迅先生像」と片平キャンパス正門近くには「魯迅旧居」が残されている。東北大学創立100周年を記念して「藤野厳九郎像」が新たに設置されて話題に。太宰治の『惜別』は藤野に別れを告げに行った周青年=魯迅に藤野が自分の写真の裏に「惜別」の二文字を書いて手渡したエピソードを題名にした。

*1936=昭和11年  沢村栄治が甲子園の阪神戦で初のノーヒットノーランを達成した。

この年、開始されたプロ野球リーグ初の快挙で阪神との優勝決定戦を3連投し巨人に初優勝をもたらした。翌年には24勝、防御率0.81の好成績を残し、阪神戦で2度目のノーヒットノーランを添えて初のMVPに選出された。

三重県宇治山田出身、京都商業=現・京都学園高の投手として3度の甲子園を経験、1試合23奪三振記録で片鱗を見せた。黎明期の巨人だけでなく日本球界を代表する豪速球投手として名を馳せ、阪神の強打者・景浦将とはよきライバルで名勝負を繰り広げた。2度の徴兵による負傷などでサイドスローに転向、名古屋戦で3度目のノーヒットノーランを達成した。1944=昭和19年のシーズン初めに巨人を解雇され、3度目の出征で戦地に向かう途中、12月2日に屋久島西方沖で輸送船が撃沈されて27歳で戦死した。

巨人が沢村の功績をたたえて背番号14を永久欠番にし「沢村栄治賞」が制定したのは戦後の1947=昭和22年である。

*1937=昭和12年  内閣情報部が国民歌「愛国行進曲」の歌詞を募集した。

応募総数5万7千余編。1位は23歳の森川幸雄で、作曲も公募の結果「軍艦マーチ」の作曲で知られる70歳の元海軍軍楽隊長・瀬戸口藤吉が当選した。「見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば」のあれです。翌年にかけて当時としては空前の百万枚突破の大ヒットとなった。同じ公募歌謡では朝日新聞が募集した当選歌「皇軍大捷の歌」や大阪毎日・東京日日新聞懸賞歌の「日の丸行進曲」も広く愛唱された。他のヒットでは「皇国の母」「愛国の花」「陣中ひげ比べ」「涯なき泥濘(ぬかるみ)」「上海だより」「荒鷲の歌」「麦と兵隊」「月下の吟詠」と戦時歌謡や軍歌が続き軍国主義は歌う国民をひたひたと染めていった。

厳しい検閲をすり抜けた当時の流行歌を紹介しておこう。「支那の夜」の渡辺はま子が<大陸メロディ>に火を付けると「霧の四馬路(スマロ)」を浅草芸者出身の美ち奴が歌った。おりからの大陸ブームもあってブロマイドとレコードが飛ぶように売れた。「雨のブルース」の淡谷のり子は戦時中ながらこの歌によって<ブルースの女王>になった。尾崎士郎原作の映画「人生劇場」の同名主題歌をテイチクの楠木繁夫が歌い、同じく川口松太郎原作の「愛染かつら」は霧島昇とミス・コロムビアが歌った主題歌「旅の夜風」だけでなくB面の「悲しき子守唄」まで映画を離れて大流行となった。

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