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“4月18日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1942=昭和17年  太平洋戦争開戦1年目にして初の東京空襲がこの日正午すぎだった。

犬吠埼の東700海里、空母ホーネットから飛び立ったドウリットル中佐指揮のB25爆撃機16機の編隊が東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸に爆弾を落としてそのまま中国大陸に飛び去った。この空襲での被害は死者87名を含む550名に上った。しかし大本営の発表は違った。

朝日新聞は
「けふ帝都に敵機来襲、9機を撃墜、わが損害軽微」「バケツ火叩きの殊勲、我家をまもる女子、街々に健気な隣組群」「初空襲に一億たぎる闘魂、敵機は燃え、堕ち、退散」
と報じたが国内での撃墜成果は実際には皆無だった。

<片道攻撃>だった米軍側B25も15機は中国までようやくたどり着いたものの不時着などで全損となった。パラシュート降下した乗員も拘留後に死刑になったりして故国へは戻れなかった。唯一、ソ連ウラジオストックに不時着した一機の乗員だけが各地を転々としたあとイラン経由で脱出して帰国した。彼らは故郷で大歓迎を受けたものの損害はあまりにも大きかった。

アメリカ本土では「ドウリットル空襲の成功」として宣伝されたが作戦の詳細は長く伏せられた。記者会見したルーズベルト大統領は成果を強調したものの「爆撃機はどこから飛び立ったのか」と聞かれて「シャングリラからだ」と煙に巻いた。シャングリラはヒマラヤにある架空の都市だが、これが通じなかった記者が「空母シャングリラから発進」と書いたことでのちに同名の空母が造られた。

*1019=寛仁3年  大宰府からの急使が「刀伊(とい)の入寇」を都の摂政・藤原頼道に奏した。

刀伊は古代朝鮮語で北方の異民族で中国東北部にあった女真族のこと。それが船50隻で対馬、壱岐、九州北部に入寇、つまり襲撃して何人もが殺されたと急報したのだ。時は摂関政治の最盛期で、権勢を誇った藤原道長が息子の頼道に摂政の位を譲った直後だったから太平の世に慣れ切った公家貴族らはこれに狼狽してあわてた。

どうしたかというと、朝廷で会議をして山陰、山陽、南海、北陸の諸道を警護せよという<勅符>を下し、諸社寺にさまざまな退散祈願の祈祷をするように<議した>のみだった。異変に際しても神仏に頼ることしか知らない彼らの無能ぶりが暴露されたわけだ。

ひとり大宰府に下っていた藤原隆家だけは在郷の武士を率いて入寇を撃退して武名を上げた。天下の「さがな者=荒くれ者」として有名だった隆家は清少納言との応酬などで『枕草子』や『大鏡』にも多くの逸話を残している。凱旋帰京して間もなく、都で流行した疱瘡=天然痘を「隆家が持ち帰った」と噂されたというから、それを妬む反対勢力も多かったというべきか。ともかく日本の領土に上陸してきた敵軍を撃退した最初の人物となった。

*1943=昭和18年  聯合艦隊の山本五十六司令長官が米軍機に撃墜された「海軍甲事件」が起きた。

長官機は零戦6機に護衛されもう1機の一式陸攻と午前6時にラバウルを出発、ブインに向かう途中にブーゲンビル島上空で待ち伏せしていた米軍のP38が襲いかかった。翌日、捜索隊によって密林に墜落しているのを発見された機体はいくつかに折れ、尾翼から胴体にかけて無数の機銃痕が残っていた。操縦士ら9人は焼けた機内で、山本長官と軍医長の高田六郎少将は機外に倒れており全員の死亡が確認された。長官は軍刀を左手で握り、白手袋をはめた右手を添えていたとされる。

米軍は長官機の移動情報を暗号解読でつかんでいた。長官の死因は、機銃掃射で頭部などに貫通銃創を受けたため、墜落時の全身打撲によるショック死、拳銃による自決説などがある。阿川弘之は『山本五十六』(新潮社、1965)で、墜落時にただ一人生き残った髙田軍医長が山本長官の遺体が黒焦げならないように機外に引っ張り出し軍刀を持たせたという<機上での即死説>をとっている。

遺体はブインで火葬され、底にパパイヤの葉を敷いた骨箱に納められた。戦艦「武蔵」に乗せられた遺骨は5月21日に東京湾へ戻り6月5日、日比谷公園の斎場で国葬が営まれた。米国のマスコミは山本長官の戦死を「Get Yamamoto」として伝えた。Getは人・動物・魚などを捕まえる、やっつけるとかの意味だが真珠湾の奇襲作戦などを考えた張本人だったから<とうとうやっつけた>のニュアンスだろう。戦史作家バーク・デイビスの『Get Yamamoto』も同じ原題を『謀殺山本五十六』(原書房、1970)と邦訳されている。

後任となった古賀峯一司令長官も1944=昭和19年3月31日にパラオからミンダナオ島のダバオへ向かう途中で台風による荒天に巻き込まれて搭乗機が行方不明になった。こちらは「海軍乙事件」と呼ばれる。山本も古賀も当時は大将で死後に元帥になったが、司令長官の連続殉職は敗戦局面に米軍の暗号解読を疑いながらもあえて動かなければならなかったと考えれば皮肉な運命ではある。

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