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“4月29日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1770年  キャプテン・クックが新大陸オーストラリアに記念すべき第一歩をしるした。

一介の水兵から英国海軍の勅任艦長に昇りつめたのは、航海長時代に行った精密な測量技術への評価があった。北米・セントローレンス川の河口域などの詳しい地図が当時なかったのは周辺海域が夏でも濃霧に覆われ、帆船からの観測は困難を極めたからでもある。なかでもニューファンドランド島の測量は毎年出かけたものの5年がかりだった。その完成度は現在のものと比べても遜色ないものだが、任務遂行のためには乗組員全員を束ねる統率力も必要なだけに海軍士官ジェームズ・クック(本名)は、海軍本部だけでなく英国王立協会からも注目された。

新大陸発見のきっかけは王立協会から依頼された軍艦ソルベイ号での探検航海で、表向きには南太平洋・タヒチでの金星観測だった。前年6月3日に金星が太陽の手前を横切る「日面通過」が予測されていたからだが、他のヨーロッパ諸国を<出し抜く>ためのカモフラージュでもあった。タヒチの観測が終わったら開封するよう指示されていた<秘密指令>には「未知の南方大陸を発見せよ!」とあった。途中、ニュージーランドが二つの島に分かれていることを突き止めほぼ完全な海岸線の地図を作製し、海峡を「クック海峡」とするとさらに<西>に進路をとり、やがてとてつもなく大きな陸地を見つけた。

海岸に沿って北に向かい、1週間後に大きな入り江に入った。クックはたくさんのアカエイが泳いでいたのでここを「アカエイ湾」手前の岬を「カーネル岬」と名づけた。現在の大都市シドニーの南方にあるといったほうがわかりやすいか。このとき陸地には先住民のアポリジニがいて、おおむね“友好的”だったとされるが、一説には船からの威嚇発砲に驚いた彼らが「盾」を取りに戻ったすきに上陸したとも。

結果的には仲良くできたようで、彼らが<後ろ足が発達して飛びながら走る奇妙な動物>を指さして話した「カンガルー」が英語の仲間になった。

*1912=明治45年  北海道・夕張炭鉱第二斜坑でガス爆発が起き死者278人が死亡した。

政府は罹災者慰問の勅使侍従として日根野要吉郎を派遣したが読売新聞には「弔慰金は働き高の100日分、窮困者には申出次第、会社にては米2斗、味噌1貫ずつを給し」とあるが一家の働き頭を突然奪われた家族の惨状は覆うすべもなかった。

*1949=昭和24年  IOC=国際オリンピック委員会に日本のオリンピック復帰が認められた。

第2次世界大戦をはさんで16年ぶりの夏季大会復帰となった第15回大会はフィンランドの首都ヘルシンキで開催される予定でその3年後の1952=昭和27年7月19日から8月3日までが会期だった。このビッグニュースに国中が沸き、藤山一郎や灰田勝彦らが歌った『オリンピックの歌』や伊藤久雄と岡本敦郎の『オリンピック目指して』が早々と発表され前景気をあおった。

*1947年  南米・ペルーのカヤオ港沖で「コン・ティキ号」が引き船から切り離された。

船名はインカ帝国の太陽神の名にあやかって命名された。目指すは6,000キロ先の南太平洋ポリネシアのイースター島だった。船長でノルウェ―の人類学者・探検家トール・ヘイエルダールは、インカ時代の石像とイースター島の石像モアイが極めて似ていることなどからポリネシア人は南米から移住したという説を立てた。学界からは反論されたがヘイエルダールは反論されればされるほど燃えた。「だったらそれを自分が航海することで証明してやろうじゃないか!」<行動する学者>ならではの壮大な実験航海だった。

バルサ材などで組まれたいかだ船はインカ帝国を征服したスペイン人たちが描いた図面を参考にして設計された。食糧は釣り上げた魚や網ですくうプランクトン、他は少しだけの保存食で、現代機器は無線機だけだった。貿易風と海流が彼らを目的地に運んでくれるという目論見で、ヘイエルダールら男性6人とオウム1羽が乗っていた。世界中がこの航海を書いたヘイエルダールの『コン・ティキ号探検記』に引き込まれたものです。

*1891=明治24年  二宮忠八が製作したゴム動力の模型飛行機が空を飛んだ。

忠八が住んでいたのは愛媛県八幡浜で子供のころから何よりも凧上げが好きだったため「タコ張り忠八」というあだ名が付けられた。丸亀歩兵連隊に入営していた24歳当時、カラスが飛ぶのを見て「空飛ぶ機械」を作りたいと思うようになった。昆虫や鳥がなぜ空を飛べるのかを研究した成果の第一弾が模型飛行機だった。

忠八の夢は軍から却下されたため<設計図段階>で終わるがアメリカのライト兄弟よりはるかに先行していたわけで、もし軍が承認していれば、と惜しまれる。

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