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新・気まぐれ読書日記 (45) 石山文也 昭和十八年幻の箱根駅伝(その2)

選手たちはひとかたまりになって、三宅坂の陸軍省前を通過、虎ノ門から三田の慶応義塾前を通り、札の辻で旧東海道の京浜道路(国道15号線)に入った。品川を過ぎる頃には先頭集団が絞られてきたなかで意外にも頭一つ抜けたのが立教、これに日大が懸命に喰らいつく展開となった。その後ろを文理科が追い、やや遅れて慶應、法政、専修、早稲田、中央、東農大が続いた。拓殖と青学はしばらくすると集団から離された。この順位で大井、大森、蒲田と選手たちが駆け抜けてゆく。異変が起きたのは六郷あたりで、突然、立教が一気に飛び出して独走し始めた。これに他選手はついてゆけず、9時25分過ぎにそのまま鶴見中継所に飛び込んだ。1分25秒後に日大、続いて東京文理、4位が慶應で首位から3分25秒遅れだった。

各校の1区の攻防のあらましを<いまふうに>紹介するとこうなる。現在の箱根駅伝は大会のはるか前から各校の有力選手が話題になる。前年に行われる出雲、全日本で各校主力選手がぶつかり、今年の青学のように「三冠」の行方や各校の戦力分析が細かく報道される。そういう意味では主力選手や話題選手は視聴者にあらかじめインプットされ、テレビ中継にしても放送各社が先頭の第1放送車から後方の放送車、バイクカメラ、中継所のカメラなどを駆使することで選手それぞれの刻々の動きを多面的に伝える。しかも年々、技術革新が競われるのはご存知のとおりである。

澤宮も同じように各校の順位の変動を詳しく紹介しているが、読者諸氏は各選手についてご存知ないのであるからその健闘ぶりについては本書に譲ることにする。試合経過よりも戦時中に行われたこの大会は既に始まっていた繰り上げ卒業などもあり、出場選手を集めるのも容易ではなかったことを思い起こして欲しい。しかも前年の大会は見送られていたから最低人数の頭数をようやく揃えた各校には初めて箱根を走る選手や異色のメンバーもいた。例えば東京文理は短距離=400m専門の5人に加え、家庭の事情で退部していた800mの元部員と校内マラソンで快走を見せたラグビー部員を口説き落として補欠1名を入れた11人の選手をようやく確保した。他校も似たり寄ったりの状況で同じ陸上競技でも投擲(とうてき)専門の選手までいた。投擲とは手を使って物を遠くに投げることで、砲丸投げ、円盤投げ、ハンマー投げの総称である。澤宮は資料を駆使して各選手の育った環境や練習風景、あるいは日大の中距離=800m選手で青森県弘前市出身の成田青司が残した日記を織り交ぜて練習風景や大会当日の模様などを紹介していく。成田は復路山下りの6区を走り、襷を繋いだ。

そんなことはいいから往路の結果はどうなったのか?ですか。まあ、そう急ぎなさんな。おっと国なまりが思わず出てしまった。

この写真、サイドカーからの声援を受けて力走するのは日大の4区、古屋清一である。他校よりも日大は比較的資金に余裕があったのか、それともOBが提供したのだろうか。

往路の山登り5区はトップで襷を受けた慶應の岡博治が安定した走りを見せた。多くの学校がガソリン不足の折、木炭車や自転車を使ったなかで慶應はここでもサイドカーを投入、急傾斜地点でも選手にぴったりとくっついて走った。おかげで岡も2位の日大を5分45秒も引き離して往路優勝を飾った。

大会二日目の6日は真冬の寒さで草木も霜で凍りついた夜明けを迎えた。芦ノ湖には霧がかかり吹く風も冷たいなか、選手らは午前7時には箱根神社に集合、周辺の道を軽く走り始めた。同30分には選手関係者全員が揃って参拝した。スタートは予定より30分遅れの8時半。慶応、日大に次いで17秒差で法政が飛び出していった。途中、宮ノ下では往路と同じく慶大塾長の小泉信三が帽子を振って大きな声援を送ったがその甲斐なくこの5区で慶應は抜かれて法政、日大に次いで3位となった。日大・成田も気力を振り絞って2位に食い込んだ。

その後の展開も下位の各校は大きな順位変動があったものの上位3校は互いに譲らず、最終10区のスタート順は1位法政、2位慶應で3位日大はトップから1分半遅れだった。多摩川にかかる六郷橋で慶應が法政をいったんは抜くが再び並ばれて蒲田、大森と並走が続く。逆に日大・永野は21回大会(昭和15年)で兄弟選手として優勝に貢献した弟の常平で本来の専門は800mだったが「区間賞男」として鳴らした兄に勝るとも劣らぬ勝負強さがアンカーには最適だったものの序盤で早くも2分50秒の差を付けられていたから当然ながら先頭2選手の姿は全く見えない。永野の伴走は主将・杉山繁雄で「お前、どこで抜くか」という杉山に永野は「八ツ山(橋)で抜く!」と大きく答えた。「よし、それで行こう!」と杉山は応じたが八ツ山橋は国鉄(現JR)品川駅の手前で、レースも後半どころか終盤に近い。

6キロ付近でようやく杉山が慶應と法政の選手の姿をとらえた。「永野見えたぞ!」という声を聞くと永野は加速して予定通り八ツ山橋で追いつき、3人が並んだ。そのまま、品川駅前、泉岳寺前、札の辻まで来た。ここから赤羽橋に向かって左折すると慶應のキャンパスとなる。そうなれば地元だけに応援団も多い。日大・永野はここで猛然とスパートした。差は一気に広がり、「優勝確実」を信じて約5百人が詰めかけた慶應応援団は目を疑った。それでも慶応・荘田は大応援団の前で法政を抜き返して面目を保ったが順位は変わらず、日大が13時間45分5秒で見事総合優勝、全校が無事完走した。6区を走った日大の成田はゴールの靖国神社に先廻りしていた。この日の日記に「遂に永野氏トップに出で九段に入ったのはピンク、ピンクだ、日大だ。熱戦の末遂に勝った」と記した。天気は快晴で、暖かい日だったとも記録している。

「死ぬまでにもう一度箱根を走りたい」という学生たちの必死の思いが大会を実現させ、長く「幻の」と言われ続けた昭和十八年の箱根駅伝はこうして終わった。冒頭にも紹介したこの本のサブタイトルは「ゴールは靖国、そして戦地へ」である。各選手の活躍ぶりを細かく紹介する紙幅がなかったので戦地に散った選手名はいちいち挙げないが、日大・成田は終戦前日の8月14日に二人乗りの特攻機でジャワ島のアメリカ軍基地へ向う途中、静岡県沖でエンジンが故障して墜落、同乗者は即死したが大けがをしたもののたまたま通りかかった漁船に救助されて奇跡的に生還した。成田はさっそく陸上競技を再開し、昭和21年の第一回国体の400mに青森県代表として出場、3位に入賞している。その後は建築業を興したが箱根駅伝の思い出は特攻で亡くなった仲間への哀惜もあってか多くを語らなかったという。

もう一人、日大の主将だった杉山は3年間のシベリア抑留を経て帰国、山形県庁に勤務しながら、山形市の陸上競技の大会審判を引き受けた。地域のマラソンのコーチをする一方で日大の校友会の世話役も積極的につとめ、91歳で亡くなる直前に娘が聞き書きで校友会誌に箱根駅伝の思い出を『秘話』として残したが、シベリアでの悲惨な体験は語ろうとはしなかった。人生最期の思いを語るとき、その心はあの18年の箱根が占めていたはずだと澤宮は書いている。

ではまた

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