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“4月24日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1734=享保19年  江戸の大富豪<紀文大尽>こと紀伊国屋文左衛門が65歳で没した。

荒天が続くなか波濤を越えて紀州から江戸へみかん船を回航して一攫千金、一千万両の大金を手にしたとされる。

沖の暗いのに白帆が見ゆる あれは紀の国みかん船

俗謡の快挙は文左衛門20代のこと。江戸では毎年秋に鍛冶職人らが「ふいご祭り」で集まった人々にみかんを撒くしきたりがあった。この年(1644=正保元年)は天候不順が長引いたことでみかんの入荷がまったくなく、逆に上方ではだぶついて値崩れを起こしていた。文左衛門は使われなくなった船を借りて緊急修理、近郷近在から命知らずの船乗りを集める一方、金を工面してありったけのみかんを買い集めた。自身も船に乗り込んで和歌の浦から江戸をめざしたのが10月26日。

神主だった義父が航海安全を祈願した御幣を背中にくくりつけ馬で港に駆けつけたとか、「梵天丸」に決死の覚悟の白装束で乗り込んだというのは三波春夫がNHKの紅白歌合戦(第17回)の大トリを飾った『紀伊国屋文左衛門』のなかのせりふ。出港したのが<正保元年10月26日の朝まだき>やこの<船名>も実際のところははっきりしない。

あるとき吉原に繰り込んだ文左衛門に遊郭の主人が一筆を所望した。「千山」の号で俳句も芭蕉の弟子だった。ところが酔っぱらっていた文左衛門は短冊に「此のところ小便無用」と書きなぐった。そこに幇間(たいこもち)役で一緒だった俳人の其角がすかさず「花の山」と続けたので主人がたいへん喜んだというのも<良くできたハナシ>ではある。

もっともみかんだけでなく、大洪水により上方で悪疫が流行したと知ると江戸中の塩鮭を買いまくって上方に運び「悪疫退散には塩鮭がいちばん」と売り出したなど、商才伝説は枚挙を知らず。資金に物を言わせてというかあちこちに<賄賂>をばらまいて幕府御用達の材木商になってからは上野寛永寺の造営で巨利を得たとも。

ところが、深川・木場の材木倉庫が火事で焼失。鋳造を請け負った「十文銭」が粗悪過ぎてわずか1年で通用禁止に追い込まれて大損するなど次第に運が傾き、息子も凡庸で一代限りに終わった。深川・成等院の墓所に眠るが、みかん産地関係者や同じ「紀伊国屋」の屋号で商売する面々から歴代の和歌山県知事までお参りが絶えないとか。

*1932=昭和7年  目黒競馬場で日本ダービーのはじまりとなる東京優駿大競走が行われた。

イギリスのクラシック競走「ダービーステークス」を模範に創設された。芝2,400mに最終登録の4歳馬19頭が出走した。なかでも下総御料牧場所属で函館孫作騎手の「ワカタカ」がダントツの1番人気だった。当時の馬券は単勝だけで1枚20円。1着賞金は破格の1万円と付加賞金として1万3,530円だった。

当日は雨が降りしきり馬場は不良。出走は午後3時だったが馬場の整備などもあって進行が遅れた。現在のように<調騎分離>ではなく調教師と騎手の兼任が許されていたが函館騎手には大物の東原玉造調教師が付いて細かく指図するのを「うるさい、つべこべ言わずに黙っていてくれ。馬も乗り方も俺が一番よく知っている」と怒鳴ったと伝わる。

レースはラジオで全国に中継され、レース本番だけでなく下見馬場から入場まで事細かく伝えられた。つめかけた観衆は1万人だったがラジオを通じて全国の競馬ファンだけでなく馬産地関係者も耳を傾けた。
「函館騎手は赤帽、赤袖で紫の格子縞の勝負服、一番人気を背負っているだけに絶対に負けられないこの一戦。鞍上でキッと前方を見据えてすっくと背筋を伸ばしたおなじみの凛々しい姿であります。場内の水たまりには散った桜の花びらが浮かんで揺れております。大観衆もいまかいまかと降りしきる雨も気にせず立ちつくし固唾をのんでいるのであります」などとなかなかの名調子で間をもたせた。
中盤、ワカタカはいったん後続に並ばれたものの最後は4馬身差で後続をぶっちぎった。タイムは2分45秒2。現在のように2分20秒台の高速レースが当たり前になっているのとは隔世の感はあるが、函館騎手はとにかくファン期待通りの走りを披露したわけだ。

*1651=慶安4年  大奥の女中3千7百人余りが<リストラ>された。

3代将軍徳川家光が病死し、長男の家綱が跡を継ぐと大奥に激震が走った。大半の女中に暇が出され退去させられたのだ。家綱はまだ11歳だったこともあったが家光時代は乳母の春日局が権勢をふるうなど統制が緩んでいた。この日の<大奥粛清>は幼君を擁してのいわば政治介入に先手を打つ格好だったか。

そんな大胆な改革だったら春日局が口をはさみはしなかったのかと思われるかもしれない。彼女は1579=天正7年生まれで1643=寛永20年、つまり7年前に64歳で亡くなっています。しかし大奥の女中の数は千人から多い時で数千人とされていたからこのリストラでさしもの大奥もガランとなったのでは。

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