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“4月6日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1483年  イタリアルネサンスを代表する画家・建築家のラファエロが生まれた。

宮廷画家の一人息子だったので父親の工房でデッサンと絵画の初歩を学んだ。11歳で父を失ったが、バチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画を手がけた画家ペルジーノの弟子となり、20代前半はフィレンツェで活躍、後半にはローマへ出て工房を構え、教皇ユリウス2世に雇われてバチカン宮殿のフレスコ画を多く手掛けた。

1514年にはサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命され、17年にはローマの古物監督責任者に推挙されるなど芸術家としては異例の富と権力を手中にする。絵画の技術と経験に加え、如才なさでパトロンも多く抱える時代の寵児になった。ミケランジェロが<偉大な改革者>と呼ばれるのに対し、同時代を生きたラファエロはそれまでの芸術手法を統合、さらに洗練して優雅な様式を確立したことで<総合芸術の天才>といわれる。

とくに繊細で美しい描写の『聖母子』(ルーヴル美術館蔵)、『大公の聖母』(ビッティ美術館蔵)、『小椅子の聖母』(同)、『システィーナの聖母』(アルテ・マイスター絵画館蔵)など多くの聖母を描いたので「聖母の画家」とも。当時のローマでは最大といわれた彼の工房には各地から優秀な才能が集まり、50人の弟子と助手が常時多くの仕事をこなしていた。

しかし37歳の若さでの突然の死にはやっかみも含めてさまざまな噂も立った。ルネッサンス期の芸術家列伝を手掛けた画家で建築家のヴァザーリは「性愛の楽しみが過ぎたためだ」と書き残している。

<擁護派>からは「熱病による死」とされたが、旅行する暇もなかったしローマで熱病にかかるとは考えにくいとして近年の研究ではまたぞろ「性感染症説」があるとか。亡くなったのも誕生日と同じ1520年のこの日だった。

*1937=昭和12年  立川飛行場を朝日新聞社の「神風号」が英国ロンドンに向けて飛び立った。

世界各国が飛行スピードを競っていたこの時代、陸軍が総力を挙げて開発した「九七式司令部偵察機」の試作2号機で三菱重工業が製造した。空冷14気筒エンジン「ハ26」を採用して出力を900馬力に上げたことで最大速度は時速510キロ、飛行高度最高4000m以上、航続距離2,400キロを記録した。機体ははじめて空気抵抗の少ない「沈頭鋲」を採用し主脚は重量を減らすため流線型のカバーを付けた<固定式>で2人乗りの単葉機だった。

英国訪問の目的はいまのエリザベス女王の父ジョージ6世の戴冠式の奉祝だったが、フランスが何度も失敗したパリ-東京間の飛行時間100時間を切るという大目標もあった。乗り組んだのは陸軍飛行学校出身の飯沼正明操縦士と塚越憲爾機関士で、飛行コースは、台北、ハノイ、ビエンチャン、カルカッタ、カラチ、バスラ、バクダッド、アテネ、ローマ、パリを経由してロンドンをめざした。

ヨーロッパ各国からは当時の日本はまだ飛行機後進国としか見られていなかったので当初は<水準外>とされていた。ところが順調すぎる飛行の情報が伝わると状況が一変する。デイリー・エクスプレス紙が8日付朝刊のトップで神風号の接近を報道すると経由地のパリのル・ブルジェ空港は人波であふれ、飯沼操縦士と塚越機関士はフランス政府からレジオンドヌール勲章を贈られた。

ロンドンのクロイドン空港着は現地時間の9日午後3時24分に到着。ここでもあふれかえる大観衆に迎えられた。総飛行距離約1万5000キロ。立川離陸後94時間17分56秒で給油・仮眠を除く実飛行時間は51時間19分23秒で驚異的な世界新記録だった。

「神風号」は大西洋航路で到着する秩父宮夫妻を空から歓迎したあとヨーロッパ各地を親善訪問。5月12日に行われた戴冠式の記録映画を積んで14日にロンドンを離陸、21日には大阪を経て羽田空港に帰還した。朝日新聞は本社前を埋めた大観衆を
「帝都に“熱狂新記録”を樹立」「数万の群衆に応へて両英雄・唯感涙」
と伝えて2人は一躍、時の人になった。

その後、2人はどうなったかを紹介しておこう。
陸軍に徴用されていた飯沼は太平洋戦争開戦の3日後の1941年12月11日、プノンペンの航空基地でプロペラに当たる事故で死亡した。直前、偶然にも出先で2人が出会い、「機会があればまたコンビを組もう」と約束したばかりだった。

塚越は1943年に東条英機首相の肝煎りでひそかに計画されたシンガポール-ドイツへの無着陸飛行に搭乗、7月7日にシンガポールを飛び立ったままインド洋上で行方不明になった。計画を家族の中では妻にだけ打ち明けて出発したという。

陸軍がなぜ民間機を使ったかというと途中での事故など万一の場合の問題化を避けるためだった。「神風号」もそれは例外でなくロンドンに向かった塚越たちは自決用に青酸カリを携行して機上の人となったという。

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