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“3月25日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1918年  作曲家クロード・ドビュッシー55歳、パリに死す。

不倫だの情通だのと女性関係ではいろいろあったが、駆け落ち同然に再婚した夫人との間にはじめての娘・エンマを授かり「シュシュ」と呼んで溺愛した。フランス語で<キャベツちゃん>の意味とか。
和製外来語・シュークリームの「シュ」ですな。

「大切でかわいいシュシュへ」の献辞を添えて彼女のためにピアノ組曲『子供の領分』を書いた。大人でも子供らしい気分に浸ることをめざした作品とされるが『象の子守唄』『人形へのセレナーデ』『小さな羊飼い』『雪は踊っている』の曲名からかピアノ発表会やおさらい会で演奏されることが多い。

父の死の1年後、彼女もジフテリアで夭逝してあとを追った。嗚呼!

*1792=寛政4年  30歳の俳人・小林一茶は「父の願ひなれば京参りせむ」と江戸を発った。

「暁にむさしの霞をうしろに」した旅は、芭蕉が「東海道の一筋も知らざるもの、風雅おぼつかなし」と残したのを胸に秘めての旅だった。

  やせ蛙まけるな一茶是にあり
  めでたさもちう位なりおらが春    ちう位=中位
  やれ打つな蠅が手をすり足をする
  明月をとってくれろと泣く子かな
  雀の子そこのけそこのけお馬が通る

こんな代表句がみなさんもすぐに浮かぶのではと思う。

50歳で帰郷した信州・柏原は、江戸と越後を結ぶ北国街道の宿場町。いまはまだ

  是がまあつひの栖か雪五尺      つひ=終

だが、間もなく

  雪とけて村一ぱいの子どもかな

の春を迎える。

大火で宿場のほとんどを焼き、一茶の母屋も焼けたが、焼け残った土蔵で64歳の人生を閉じた。法名は釈一茶不退位。生涯に詠んだ句は約2万とされ、芭蕉の1千句に比べ句作の数は大きく上回るが「宗匠」として一家は成せなかった。それでも国民に愛される俳人のひとりとされるのは子供たちを愛したというイメージがあるからに違いない。

*1878=明治11年  東京・築地にわが国ではじめて「アーク灯」が点灯した。

電信中央局の開業祝賀会の会場として借りた虎ノ門工部大学校(東京大学工学部の前身)の大ホールにアメリカ人技師の指導で50個が取り付けられた。当時は石油ランプやガス灯しかなかったから点灯した瞬間、参会者からは驚きの声が上がり拍手がわき起こったものの明るく輝いたのはほんのひとときですぐに消えた。

故障したのか1時間50円といわれた電気代が高すぎたので<おひろめ>だけだったのかは不明である。

続いて銀座、京都祇園、大坂道頓堀などに「街灯」が設置されて一般庶民を驚かせたが当時はエレクトリックライトの訳から電燈を「電気光」と呼んでいた。新聞や錦絵の比較は「蝋燭4千本分の」と常に<ろうそく換算>だった。
いまの「白熱電球の何個分」というのと似たようなものですかな。

*1826=文政9年  長崎オランダ商館医師のシーボルトが商館長のお供で将軍家斉に謁見した。

シーボルトの高名は有名だったから江戸参府を聞いた薩摩藩の前藩主・島津重豪(しげひで)が大森まで出迎えたほどだった。シーボルトは4月12日に江戸を出発するまでの間に大槻玄沢、高橋景保、最上徳内、間宮林蔵ら多くの学者と面会して交流を深めた。

それ以後、長崎に戻ってからも高橋や最上とは音信や贈答を重ねてのちの「シーボルト事件」の原因になった。

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