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書斎の漂着本  (29)  蚤野久蔵 京都寶塚ニュース

京都の古書店で見つけた昭和16年(1941)の『京都寶塚劇場ニュース』9月号は、隅の一部は欠け触ると破れそうだった。あと3か月ほどで太平洋戦争が始まるという時期である。値段はたしか300円だったので、ひょっとしたら『蚤の目大歴史366日』に使えるかもしれないと購入した。ぼろぼろのチラシを買おうなんて何をまたモノ好きなと言われそうだが、なかに観覧券の半券が挟まれていて、そのスタンプから「9月4日」と日が特定できるのも面白いとも考えた。「三階席リ18」で、そこからは舞台をかなり下に見下ろす位置になる。料金は税共1円ちょうど。「此切符発行後公演中止の際を除く外料金の払戻他日又は別の番号の切符と御取替致しませぬ」と印刷されている。

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半券と同じ日付が表紙のいちばん上の写真のところに「16.9.4」とブルー・ブラックのインクで書かれている。これは家に帰ってから記入し、半券も大事に挟んでおいたからそのまま残ったのだろう。半券などはポケットに突っ込んでいつの間にかなくしている私と違ってかなり几帳面な性格だ。しかも数字の感じから男性のように思える。喜劇ファンだったが舞台に近い席には手が出なかったから3階にしたのか、それともそこしか空いていなかったののだろうか。検索したところ天候などはわからなかったが9月4日は木曜日だった。ということは木曜定休の店などに勤めているとか、休みを自由に取ることができる仕事、あるいはそういう立場の人物なのか。半券は一枚だけなのでひとりだったのだろうと想像したりしているが「そんなことわからないじゃないか、アベックだったかもしれない」などと突っ込まれても「そうかしら」と受け流すしかない。

表紙のカット写真には演目の「エノケンの文七元結(ぶんしちもっとい)」の一場面が使われている。裏表紙は東京・平尾賛平商店謹製の乳白美容料「レートフード」の広告で、「身嗜みに!二・三滴でお肌がひきしまり、溌剌とした美しさになります」とうたっている。肌色と白色の2種類がある。それにしてもこの乳液も、表紙の「ノルモザン錠」という胃薬も、戦後生まれの私は聞いたことのない製品だ。中面の「頭痛・目まひ・歯痛に、ノバポン錠」や「あなたは健康でお美しい!そのお美しさをもっと輝くやうに。品質―第一級品たる東寶化粧料を!」という<ほめあげ・おだて戦術>の東寶健康化学研究所の「ルピナシリーズ」も「場内売店にて発売中!」というから普及品のたぐいだろう。唯一、知っているのは「残暑から・・・秋口の胃腸をまもるヱビオス錠」だ。製品も、それを製造した会社自体も戦争で消滅したのかもしれない。

エノケンの名前で親しまれた榎本健一は東京生まれ、麻布十番のせんべい屋の長男で幼いころから「エノケン」と呼ばれた。学校をさぼって浅草花屋敷で遊ぶうち浅草オペラの魅力に取りつかれ、大正11年(1922)に根岸歌劇団のコーラスボーイになった。翌年の『猿蟹合戦』の猿役のアドリブで大当たりをとるも、歌劇団は関東大震災で壊滅した。その後は名古屋や関西を転々としたあと東京に戻り、昭和6年暮れに自分の一座を持つと小柄だがどんぐり眼に大きくて厚い唇、しゃがれた声で口から出まかせのセリフをしゃべりながら舞台を飛び回る面白さが受けて一躍浅草の人気者になった。

演出家の菊谷栄と組んで映画にも進出してヒットを続け、松竹専属になったが菊谷が中国で戦死すると、舞台でも精彩を欠くようになり松竹を退社してしまう。昭和13年には東宝に移籍したが名前はエノケンと榎本健一が混在した時代だった。京都での座長公演も「東宝榎本健一一座」となっている。演目には『エノケンの文七元結』六景と『逃げる仇討』四場、『嫁取り婿取り』七景の3本が組まれている。

『文七元結』は落語の三遊亭園朝の創作で、腕の立つ左官だが賭けごと好きで50両もの借金を作ってしまった父親の長兵衛をいさめようと娘が吉原に身売りする。長兵衛はこの金を受け取って帰る途中、吾妻橋で身投げをしようとしている男を見つける。そのわけを聞くと白銀町の鼈甲(べっこう)問屋「近江屋」の奉公人の文七で、さる屋敷から集金した金50両をすられてしまい、死んでお詫びをするという。長兵衛は持っていた50両を差し出して・・・。どんでん返しに次ぐどんでん返しだからこのくらいにしておくが、<大真打>と呼ばれる落語家だけが許されるご存じの人情話である。

『仇討』の猿江充馬も『嫁取り』の山下課長も主役はすべて榎本健一だから、表紙には「おことはり」として「出演者病気その他事故により休演の節は代役をもって相勤めます故、何卒御了承下さいませ」とあるが代役は端からいそうにない。「東宝榎本健一一座」の公演がいつまでかは書かれていないが、そのあとは映画3本立てが予定されているようで成瀬己喜男監督、高嶺秀子主演の『秀子の車掌さん』、原節子主演の『女教師の記録』、榎本健一一人三役主演の『エノケンの爆弾児』が紹介されている。「エノケン一座総出演」とあるからこちらでも大活躍である。榎本は太平洋戦争の勃発を朝鮮・満州巡業中に聞いたそうだから京都公演の次は休む間もなく海を渡ったのだろうか。<忙しすぎる喜劇王>である。

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昭和16年の京都を『京都の歴史』(学藝書林)の年表からたどると3月13日には市役所に防衛部が設置され、4月1日には大政翼賛会京都支部が正式に結成された。同じ4月には立命館大学で国防講座が始まり、同志社大学では日米関係悪化を理由に外人教師が学校を去った。近づく戦争にもかかわらず、京都寶塚劇場は連日満員だったようだが、最後のページにある『映画放談』のなかに<戦争の予兆>を見つけた。

「最近色々の事情から、劇場内案内用の懐中電灯の電池が、以前の様に無制限に入手出来なくなりました。又、それでなくとも時局下一片の資材も生産工業へ、との私達の建前から、今後は場内案内の電気を節減の方針を取る様になると思います。しかしだからといって場内を現在以上明るくすることはスクリーンへの影響上不可能なので明るい戸外から急に入場されたお客様に多分御不満を感じさせる様な事が有るかも知れませんが何分この事情を御諒解の上御辛抱をお願い申し上げます。皆様の劇場として銃後娯楽報国の誠を盡す覚悟でおります」

「たかが電池」だけにとどまらず、映画製作にも軍部の全面協力と引き換えに国威発揚の<美名>のもとに戦争賛美があからさまに求められる時代背景を感じる。そこまで来た戦争の足音が聞こえるようだ。

待望一年!全日本映画界の注視を浴びて完成、いよいよ封切迫る!という原節子主演の『指導物語』には「戦野を駆ける鉄道隊!多くの兵士を前線へ輸送する血と汗の鉄道兵の活躍!機関車乗務員の涙ぐましき激闘を描いて限りなき感激と興奮を盛って支那大陸へロケ敢行、初秋に放つ一大熱血巨篇!」とある。

『映画放談』にも「聖戦遂行の一端を負う鉄道兵のなかでも機関員になる兵士は、他の諸兵科と違って特殊技能を得るために、国鉄の機関区に入って機関、運転、投炭の技術を僅か三ヶ月で修得して各戦野に赴き、幾多の兵士の生命を預かる。修得期間における指導員と兵との間には骨肉もただならぬ愛情の炎が燃え上がってくるわけで、この映画はそこを狙っているのである。『上海陸戦隊』を発表して以来、この作品に全力をかけてきた寡作家・熊谷久虎監督の力作を期待して止まない」と紹介されているのも開戦を見越したかのように思えてくる。

この6年前の昭和10年10月12日に宝塚少女歌劇団花組記念公演で華やかに開場を飾った京都寶塚劇場は河原町六角交差点の北西角にあった。戦後建て替わったが平成18年(2006)に70年の幕を下ろした。「銃後娯楽報国」の流れのなかで「東寶榎本健一一座」の喜劇公演のあとには『指導物語』が上映されたわけである。

さて、「三階席リ18」の<喜劇ファンの御仁>は果たしてこの映画も観に行ったのだろうか。

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