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“9月14日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1919年  アメリカ第25代大統領ウィリアム・マッキンリーが未明に58歳で死去した。

南北戦争従軍経験のある19世紀最後の、20世紀最初の大統領で急進無政府主義者の凶弾に倒れた。マッキンリーは金融恐慌などを引き起こした1873―96年の大不況の回復に「金本位制」を導入するとそれが世界のすう勢になった。就任翌年の98年にスペインとの米西戦争が勃発、アメリカ軍はスペイン艦隊を壊滅させ90日間でキューバとフィリピンを占領した。12月のパリ協定でスペインの植民地だったプエルトリコ、グアムも含めてアメリカの占領下に置かれることになった。一方ではハワイ共和国を「準州」として併合、ハワイ王国は約100年の歴史に幕を閉じた。

悲劇は大統領再選1年目にニューヨーク州のバッファローで開催された「パン・アメリカン博覧会」の会場で起きた。歓迎式典の観客にまぎれた犯人がハンカチに隠した小型拳銃リヴォルバーを発射、撃たれた傷口の化膿が死因となった。後任には副大統領のセオドア・ルーズベルトが就任。アラスカ州にある北米大陸の最高峰マッキンリー山は彼にちなんで命名されたことでも知られる。

*1907=明治41年  夏目漱石は親しい門弟らにはがきで死んだ愛猫の<死亡通知>を出した。

それにはこう書かれていた。
みなさんよくご存じのわが家の猫、久しく病気でしたが療養かなわず昨夜いつの間にか、裏の物置のへっつい(=かまど)の上で死んでおりました。<埋葬の儀>は出入りの車屋に頼み箱詰めにして裏庭に埋葬してもらいました。但し主人(漱石)『三四郎』執筆中につきご会葬には及びません。

桜の下の墓には目印に小さな墓標を立て「この下に稲妻起る宵あらん」の句を書きつけた。
鏡子夫人は猫嫌いだったが一家が当時住んでいた千駄木の家に、生まれて間もない子猫が何回つまみ出しても入ってくる。ある日、泥足のまま台所に寝そべっているのを漱石が見つけた。猫好きの漱石が「置いてやったらいいじゃないか」となり、以来この猫は大手を振って夏目家の一員となった。出入りの按摩の老女の「この黒猫はつま先まで黒い。珍しい福猫です」という<ご託宣>で猫の地位はさらに上がった。

それもあってか1905=明治38年に友人の高浜虚子のすすめで『ホトトギス』1月号に『吾輩は猫である』第一部を発表すると大人気になり11回にわたって不定期に連載した。小説の最後は<吾輩=猫>が台所に下げてあった来客が飲み残したコップ入りのビールを嘗めて気持ち良くなり、散歩中に庭の甕にたまった水に落ちて死んでしまう。

<モデル猫>の死は前年に大倉書店から『吾輩は猫である』下篇を出版して版を重ねていた矢先だった。当時、夏目家に出入りしていたのは森田草平、寺田寅彦、鈴木三重吉、野上豊一郎らで森田と鈴木は小説家、寺田は物理学者、野上は英文学と能楽研究で有名になるが<吾輩>じゃなかった<モデル猫>とは顔なじみだったはず。死亡通知は遊び心というより漱石流の気分転換を兼ねた近況報告でもあったか。夏目家では毎年、猫の命日の13日を「猫の日」として好物を供えた。余談ながら<モデル>のほうも小説の<吾輩>と同じく名前はなかった。

*1822年  古代エジプトの謎を解き明かす「ロゼッタ・ストーン」が解読された。

古代エジプトの神殿に納められたオベリスクという石柱の一部で、ローマ時代に運び出され、ナイル川のデルタにあるロゼッタ近郊に置かれていた。1799年にエジプトに遠征したフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの部下が要塞を造るために集めた石材のなかから発見、その場所の名前をとって「ロゼッタ・ストーン」と呼ばれる。削った面にヒエログリフ(=古代エジプトの象形文字)が彫られている。さまざまな研究者が解読に挑戦したが謎を解き明かせなかったので単なる装飾模様ではないかと考えられた時期もあった。

ここに天才的な語学能力を持つ研究者が現れる。フランスの古代エジプト学の研究者ジャン=フランソワ・シャンポリオンだ。少年時代から非凡な語学才能を示し、9歳でラテン語、11歳でヘブライ語、12歳でアラビア語をマスターした。ロゼッタ・ストーンとの出会いは20歳のときに数学者でイゼール県の知事だったフーリエにその「写し」を見せてもらったことに始まる。シャンポリオンはナイル川のフィエラ島の神殿のオベリスクに古代ギリシャ文字でクレオパトラ女王と対になるヒエログリフを発見する。これをヒントに20年の歳月をかけて全文の解明に成功した。その内容は、プトレマイオス5世をたたえ、王たちに対する「皇帝礼拝」のやりかたを記したものだった。

この功績から「古代エジプト学の父」と呼ばれたが解読の10年後、コレラにより41歳でパリに死す。このオベリスクは1801年にイギリス軍がエジプトに上陸してフランス軍を降伏させ、その時のエジプトとの協定でイギリスに運ばれ大英博物館に展示されている。エジプトからは何度も返還要求があるが現在も博物館最大の目玉だけにイギリスとしても譲れないところだ。

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