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“12月28日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1873=明治6年  逓信省が郵便を運ぶ「郵便脚夫」に6連発の短銃を携帯させることになった。

1871=明治4年に前島密によりイギリスの制度を参考に国家事業として発足した郵便事業も治安上は大きな危険が伴った。15日に甲府郵便局から東京に輸送中だった郵便行嚢が強盗に奪われる初の郵便強盗事件が発生した。その対応策として逓信省は急遽、短銃400丁を購入して郵便行嚢を運搬する郵便脚夫に持たせることにした。

制定された「短銃取扱規則」には「郵便行嚢ノ逓送ノ際郵便物ヲ略奪シ脚夫ヲ殺傷致候賊徒往々有之」ということが記されていた。その後は「郵便物保護銃規則」と名前を変え、1916=大正5年には「強盗猛獣等出没に備え」と<脅威>の範囲を広げた。猛獣といっても当時すでにオオカミは絶滅していたから野犬やクマを想定したのだろうか。この西部劇まがいの武装は戦前を通して運用された。

*1180=治承4年  平清盛は5男平重衡に命じて南都(奈良)興福寺を焼き打ちした。

平大相国(へいだいしょうこく)と呼ばれた平家の最高権力者・清盛はこの年2月に高倉天皇に嫁がせた娘の徳子が生んだ言仁親王をわずか3歳で即位させた。これが安徳天皇で外祖父として独裁政治を始めた。これに反抗して挙兵したのが源頼政だったが頼政は宇治橋の戦いで戦死、頼政が奉じた後白河法皇の第2皇子・以仁王も南都に落ちのびる途中で平家の流れ矢に当たって死んだ。しかしいったん燃え上がった反平家勢力の動きはおさまらず清盛も意のままにならなかった。

そこで清盛はいったん政権を後白河法皇に返して足元の反乱を抑えようとした。その手始めが南都焼き打ちだった。北嶺・比叡山に対して南都は興福寺をさすが巻き添えで東大寺も焼失し天平以来の大仏も熔け落ちてしまう。火の粉を払おうとしたのがとんでもない大火になったのである。興福寺は藤原氏の氏寺、東大寺は総国分寺でともに皇族や公家にゆかりの寺だったからこれで平家は皇族や公家のすべてを<敵>に回すことになった。

*1959=昭和34年  インドのネール首相がこの日、日本記者団と会見した。

首相が強調したのはインドの非同盟平和主義の重要性だった。この年の3月にインドへ脱出してきた「チベット亡命政府」を抱えていたのと中国との国境紛争が軍同士の衝突が続くなど展望が開けなかったなかでの<切り札>ではあった。

読売新聞の小島編集長は「少し猫背のからだのどこに激しい平和への熱情が潜んでいるのかと疑わせるほどの印象だ」と手記に残した。5年後、ネールは在任中に心臓発作で死去、理想はかなえられないままとなった。近年、日本人に親しまれてきた名前も「ネル―」に統一される動き、没後半世紀以上が過ぎた。

*1945=昭和20年  「平和第一年のお正月」の配給品を巡る東京都の苦肉の協議大詰めに。

敗戦国民にとって物資不足のなか、食料は最大の関心事だったから各新聞はできるだけ紹介しようとした。窓口は東京都だったが入手先が限られていることもあって確保予定と実際に入手した量の差が埋まらない。まさに<打つ手なし>の弱音がのぞく紙面となった。

酒:暮と正月に5合ずつ2回で計1升。配給対象は一般家庭だが婦人独身者にも2合ずつ計4合。
食用油:目下集荷中につき未定だが一人当たり1合の予定。
昆布:6万貫の予定のうち3万貫は入る見込み。一人当たり10匁見当、とろろ昆布も入荷すれば混ぜる予定。
数の子:乾数の子一人当たり8匁、水に浸すと倍になる。
ごまめ:目下集荷に努力中。
菓子:一人10匁、ビスケット様のもの。
お餅:一人1キロ、お米差し引きとなるが、業者の戦災と燃料不足から都としては手当てできないのでお餅を食べたい人は焼け残りの業者に搗いてもらうよりほかはない。
新海苔:一人2枚年内に配給する予定だが、今都内に出回っている千葉物が入札の結果1帖6円50銭、これに物品税2円で8円50銭となるので現在露店で売っている8円の闇値より高くなる。
塩鱒:農林省と打ち合わせ中。

1匁は3.75グラムで5円玉の重さと同じだ。しかし「水に浸すと倍になる」という数の子や「露店の闇値より高い」という新海苔などはわざわざ書かなくてもいいのにと思ってしまう。

ところがその見出し「酒一升、お餅は一キロ」と活字だけは大きかった。

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