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“5月24日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1900=明治33年  12歳以上の男女の混浴が禁じられた。

西洋のように<文明開化>することに躍起になっていた明治政府は、キリスト教の宣教師的価値観に“迎合”するかのような混浴禁止を内務省から発令した。

「客の来集を目的とする浴場に於ては、十二歳以上の男女をして混浴せしむることを得ず」

違反した営業者は25円以下の罰金。いつから施行されるかというと間仕切り工事などもあろうからと、なんと3年後の7月からというのだからのんびりした時代だった。

もっとも大森貝塚を発見したモース博士などは「混浴している日本人こそ文明で、それを嫌悪している欧米人のほうがほんとうは野蛮なのだ」と非難した。アメリカの動物学者で標本採集のために来日し、東京帝国大学のお雇い教授を2年間つとめた。その間に採集旅行に出かけた日光・中禅寺湖の「奥の湯」で実際に混浴を体験した。若い娘も年寄りも道のすぐそばにある湯に入り、混浴の男はもちろん、道を行く男も互いにまったく気にも留めていないのを観察して感動した。

「裸を見れば劣情を催す」というのは欧米人宣教師が勝手に決めていることであると喝破した背景には当時、設立されたばかりの東大の外国人教授の大半が研究実績のない宣教師ばかりだったので彼らを放逐するさいの「了見の狭さ」の例にあげたフシもある。

*1903=明治36年  わが国初のゴルフクラブ「神戸ゴルフ倶楽部」が六甲山上に開設された。

神戸在住の貿易商アーサー・ヘスケス・グルームが中心となった。発会式には兵庫県知事・服部一三とイギリス総領事・ホールを招いた。知事の記念始球ショットはいわゆる<チョロ>でわずか1間=1.8mだったという。

六甲山の開発と景観保護に力を注ぎ「六甲山の開祖」と呼ばれただけあって、オープン当初は環境に配慮してわずか4コースだけしかなかった。冬季は雪で閉鎖になり、芝生が生えなかったのでアラブ地域のような「サンドグリーン」だった。しかも今のようにグリーンが盛り上がった砲台グリーンではなく、窪地状になっていたのでうまく届いたら<ナイス・オン>ではなく<ナイス・イン>だった。

会員も増えて18ホールになり、研究を重ねたおかげで芝生も育つようになった。ここからは日本人として初めて全英オープンに出場した宮本留吉プロなどを輩出している。

海抜850mのコースからは眼下に瀬戸内海が見え、関西財界の重鎮が歴代の会員に名を連ねて廣野ゴルフ倶楽部、鳴尾ゴルフ倶楽部と並んで関西の「御三家」と呼ばれる名門コースである。

*1955昭和30年  東京・蔵前の国技館で昭和天皇が初めて大相撲を観戦された。

陛下を初めて国技館に迎えるというので力士だけでなく関係者全員が場所前から緊張していた。5月場所10日目が当日。初の「天覧」に固くなったのか横綱・鏡里が小結・信夫山に、横綱・千代の山も関脇・朝潮(3代)に敗れるなど横綱がバタバタ倒れ土俵は大荒れになった。

なにより大相撲ファンだった昭和天皇は2階貴賓席からだと土俵の取り組みが小さくしか見えないこともあって双眼鏡=オペラグラスを持参されたのは戦後10回目、昭和39年5月場所13日目からだそうだ。

*1844年  ワシントンの最高裁判所内に発明家モールスは自作の電信機を据え付けた。

世界初の公開実験で送信相手はボルチモアに待機していた助手でどう打電したかというと
「神は何をなし給いしか」
だそうだが、助手は何と答えたというか打ち返したのでしょうねえ。

*1942=昭和17年  後楽園球場のプロ野球名古屋対大洋戦で延長28回の新記録が生まれた。

試合は結局4-4の引き分けに終わったが試合時間3時間47分。完投した名古屋の西沢道夫投手の投球数は311球、同じく大洋の野口二郎投手は344球だった。回数制限もあり完投よりも継投の妙が試される今のプロ野球とは比較にはならないだろうがそれにしてもすごい記録である。

西沢は戦後、中日のヘッドコーチや監督をつとめ背番号15は永久欠番になっている。野口は阪急で投打の二刀流で活躍、2人とも野球殿堂入りを果たした。

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