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私の手塚治虫(7) 峯島正行

 漫画集団とはなんであったか

 

 評論家の浅薄な誤謬

 

手塚治虫が「COM」(四三年二月号)誌上で「石子順造氏への公開状」という文章を書いたことは、前回、のべたが、COMは同年六月号において、石子に「手塚治虫氏への反論」という文章を載せさせている。

そこで石子はまず、最初に「週刊大衆」に載せた手塚批判の文章の掲載誌名と日付とを、手塚が書き落としたのは、マナーに欠けていると難じることから始まり、改めて、漫画集団の戦争協力と手塚の虫プロの経営の批判とを繰り返している。虫プロの問題は後日のべることにして、漫画集団の問題をまず取り上げる。

 石子は、週刊大衆に載せたことを繰り返すに過ぎない。

「昭和七年に結成された漫画集団はそれなりの功績を果たしながら戦時中には、戦争遂行に狂奔する軍部・政府のお先棒を担ぎ、マンガ家として重大な弱点を暴露した。

 その当の近藤日出造、杉浦幸雄、横山隆一、清水崑氏らが、戦後二〇年をへた今日まで、いまだに漫画集団を存続させ、主要な商業紙、誌のページに、なんら創作方法・主体の発展、変革を感じさせない漫画を描き」続けている。

「集団が親睦団体であろうとどうであろうと、そんなことはあなたもその一員である集団員の勝手だし、現在を親睦団体に過ぎないとみなすのも私の勝手だ。しかし問題は、その見えない政治力であります。

 集団員となるとちがう目で見てくれるので集団に入った方が商売になるのだという現状についてです」

といい、そして続ける。

「あなたは集団の大先輩たちを控えめすぎるくらいだし、お互いに肩をたたきあって励ましあっているといわれます。日本漫画家協会という体制的な組織、「漫画百年展」「漫画」誌の復刊、何が控えめでしょう。そしてあなたは、なにをどうはげましあっているのですか。」

「あなたがいう『クリエイターであるわれわれ』とは、いったいだれだれで『クリエイション』とは、どういうことですか。

 近藤氏たちの事例に即して、あなたのご意見をお聞かせください。……創作はいままでも主体や方法意識のへの疑問ないし変革から出発すると思います。戦争中は外部からの圧力があったから仕方がなかったでは、何のいいわけにもなりません。戦争という悪夢から覚め、二度と戦争はすまいと決意しながら創造の主体・方法の確立への再点検が望まれているはずです。

 あなたは私の意図をすりかえ、…わたしのいいぶんの矮小化という以外のなにものでもない」

 

 私もこれを読んで、前号に紹介した手塚の文章に出ているように、それこそ「ゲラゲラ笑ってしまった」石子は自分の意図が矮小化されたというが、矮小な認識しかもたぬ人物が、主観的な観念で、手塚に議論の揚げ足取りをやっているに過ぎないと思わざるを得ない。そこでは現実に対する知識もない、無知な人間が、戦後二十年もたって意味のわからない観念論を述べているにすぎない。

 石子は同文章で同じような意見を、「日本読書新聞」(昭和四三年二月一九日号)や「話の特集」四月号にも書いたと述べているが、彼の単行本、『漫画芸術論』(富士書院 昭和四二年三月)においても『戦後マンガ史ノート』

 (紀伊国屋新書)においても繰り返し、前記文章と同じように、漫画集団が軍部や政府のお先棒を担いで、戦争協力をしたと非難し、今日も変わらぬ態度で、漫画を描いているのはけしからんと繰り返し攻撃をしつづけている。しかも事実誤認、認識の浅さから来るらしい誤謬が、認められるのである。

 彼がいかに書こうとそれは自由であるし、また当の石子もすでにこの世にいないので、それを取り上げるのもいい気分ではないが、いまだに石子的議論に組するような人間が、いないともかぎらないし、漫画集団に対する誤認、誤解が存在する以上、笑いごととして済ますこともできまい。

ここで、石子の文章がなぜ矮小で滑稽な間違いなのかを、箇条書きにしてみよう。後段で、まとめて、検討をしてゆきたいと思う。

 

 第一に、前号に書いた通り、石子は漫画集団の実態を、調べもせずに、先入観念を以って書いていることである。

 第二に、戦前の漫画集団の動向、とくに近藤や横山の行動を、全く調べずに書いていることである。

 第三に、雑誌「漫画」について、その発行の経緯、実態を何も調べず、実態とはおよそかけ離れた先入観による空想で描いていることである。

第四に近藤個人と漫画集団とは別の存在で、近藤も横山も、漫画集団の一メンバーに過ぎない。だから近藤イコール集団ではないことが分っていないと認められる。

第五に近藤という個人に対する認識を何も持っていないで、戦争協力者とのみ捉えていることである。

私の見るところ戦争に絶対に協力をしなかった人は、永井荷風と、共産党関係で獄中にあった人だけぐらいであって、それ以外の人は、何らかの戦争協力をせざるを得ない社会的構造になっていたことである。

 荷風の日記(『断腸亭日乗』)を読めば、戦争非協力者の実態の一半は理解できるだろう。

 石子のような知識人が、平和の戦士とたたえる獄死した尾崎秀美でさえ、中国戦線で南京が陥落した後、昭和十三年には、さらに武漢三鎮を一日も早く攻め落とせと、中央公論誌上で、絶叫しているのである。

 だから権力への抵抗もさまざまなかたちがあったことを認識しておかねば、戦後二〇年以上たって、戦争中の人の行動を論ぜられないのである。

 第六に、これが最も基本的で致命的なことだが、論者が漫画の制作、その内容、その読者、その社会的機能、その歴史に対する知識が浅すぎることである。手塚にアハハハと笑われても仕方がないのである。

例えば、日本漫画家協会が権力に奉仕する団体の如くいうが、漫画家協会は、単なる職能団体に過ぎない。健康保険等の社会保障制度、著作権の保護、漫画家の生活権の維持などに当たる団体で、日本文芸家協会とか日本写真家協会などと同様な、職能団体で、権力とは関係のない団体である。権力には関係のない生活防衛の組織である。

「漫画」という雑誌の復刊などという問題も、一私企業の活動であって、政治的な権力とは全く別な問題であろう。

いずれ後段で述べるが、近藤の行動の実際を見ただけで、評論家石子順造の認識のあり方が、いかに浅薄なものかが知れようというものだ。

 

 

 手塚と漫画評論

 

ともかく以上に述べた六項目について検討する前に、話が飛ぶようだが、論議を明らかにするために、手塚が漫画評論についていかなる考えを持っていたかを検討しておきたい。

 手塚は「COM」六号(昭和四二年)から「まいまいかぶり」という随想を連載している。その最初は、「最近のまんが評論に思う」という題名の文章である。

 その中で手塚は言う。最近漫画評論をちょくちょくお目に掛かるようになったが、漫画ブームに即して、評論が生まれてもおかしくはないし、ここでとくに言いたいことは、これらの評論が、おはなしにならぬくらい貧弱な資料を基に無責任に書かれていることだ、と手塚はいっている。

しかもそれらは純粋に客観的視野から書かれたものではなく、たいていは筆者自身が、マニアをもって任じ、熱っぽく論じていることである、と述べている。

手塚はまんが評論家には三種類あるという。(一)は教育者の立場から、評論する教育評論家、(二)はまんがブームを流行現象として分析する社会評論家、(三)はまんがの手法や構成、作家の個性などを専門的に研究するまんがマニア、の三つである。

そして(三)の90%までは、戦後漫画ブームの中で育った若い人たちで,自分の傾倒している漫画家の作品を中心に、比較漫画論を展開するケースが多く、これらの評論は、内容がかなり偏重しており、調査や分析の方向に、かなり独善的な欠点が多い。

中には現代漫画論は、戦前の漫画は問題にしないでよいと暴言をはいているものもいる、と手塚は論じる。

そして次のように論を進める。

「日本のまんがが、日本の土壌で育つのは、それなりに過去に貴重な実績があるはずである。戦後のまんが時代が決して大化の改新のように、インスタントにできたものではない。既に忘れられた数多くの漫画家の業績やそれを生んだマスコミの功績を認めてこそ語れるのだ。

今度刊行された『のらくろ全集』を過去の遺物としか認めない人も多かろうが、まんががその時代のほんの消耗品に過ぎないというならば、それらの評論もおなじ価値しかもたないといえよう。

(中略)

となると、現代のある特定のまんがを、新まんがの到来と、マニア的にとりくむことなどは滑稽な極みだ」とし、「まんがが五,六年たってかび臭くなるように、まんが評論も四,五年で時代のずれが歴然とわかるような論旨では、その人たちが軽蔑する教育家の片手間に書くまんが評論となんら変わりはなくなってしまう。」

確かに手塚の言うとおりだと私は、心から賛同する。そして手塚はこの文章の最後に、この私にとっても決定的に重要なフレーズが、述べられているのだ。

「第三文化としての漫画のユニークさを、確固とした信念で語り得るためには、少なくとも、まんが評論家諸氏は、冷静に大局的な目で、論議してもらいたい。

 そういう意味で、ことにまんが雑誌の編集者で、まんが界全体の動きを平等にとらえられる人に新しいタイプのまんが評論家として立つことを期待したい。実業之日本社の小城彪などはその期待にこたえる一人だと思う」

 

かくも手塚から期待された小城彪とは、だれか。かく申す私、峯島正行の事だ。当時私は「漫画サンデー」の編集長だった。自分の雑誌になにか書かねばならない時は、小城彪というペンネームを使っていたのだ。

 私は、その年、本名で「中央公論」誌上(昭和43年8月号)において、劇画ブームの安易な行き方に、一つの警告を発していた。

 

 手塚に期待され、「中央公論」にまんがに関する論文まで発表しながら、なぜ、漫画の評論を書かなくなったのか。それは私の勤める出版社が、戦後、全く退陣してしまった文芸出版の再建の役目を私に担わしたからだった。昭和四五年、私は、「週刊漫画サンデー」編集長の職から退いた。その時経営者の増田義彦は、十年も週刊誌編集を続けてきたのだから、すこしやすんで、新規の事業を手掛けなさいと親切に言ってくれたたが、そんな時間がないような気がして、直ちに文芸出版を新規開拓と、「週刊小説」という新雑誌の企画に乗り出した。そして昭和四十七年一月、「週刊小説」の創刊をしたのであった。

 だが今から振り返り反省すると、経営者に懇願してでも、漫画サンデーの編集を続けた方が、そして手塚に期待されたことを通した方が、社のためにも、漫画界のためにも、しいては自分のためにも、よかったのではなかったかと、深刻に反省している。

 、時は過ぎてしまえば覆すことはできない。退社後、『ナンセンスに賭ける』を以って、再び漫画に関する筆を執った時には、漫画界は全く私の現役時代とは違った存在に、変貌を遂げていた。

 

 

 ヌエのような存在

 

さて長い寄り道をしたが、石子がいかに漫画集団を誤解しているか、を証明するために漫画集団の実態から書いてゆこう。

 昭和三〇年代から四〇年代にかけては、成人漫画の主流は当然ナンセンセンス漫画であり、その主要な作家はほとんど「漫画集団」に所属していたから、極端に言うなら漫画壇イコール漫画集団の感があった。石子、その他の評論家が誤解するのも無理ないのかも知れない。

 と言って私のように、そのメンバーの大部分を知悉しているものでも、ならば漫画集団とはなんぞやと問われると、答えに窮するのである。当時私は次にように書いている。

「漫画集団と接していて感じたことは、この団体、実体があるのかないのかつかみにくい不思議な団体だということである。どこが頭やら、尻尾やら、その形も、時に応じ融通無碍に変化する、ある種のホラー物語にでてくる妖怪のような存在であった。要するに団体としての規約も綱領もない、したがって組織も何もないのだ。会長も役員もない。会費を払うことになっているが、どうもみな忠実に払っている風でもない。主だった漫画家、例えば、横山隆一、近藤日出造、杉浦幸雄という人たちが、集団の顔ようでもあるが、特別な地位もなく、彼らはそれぞれ自由に振る舞っているだけだ。

それでいながら、外部から見ると、強固な実在なのだ。メンバーの団結、結束もかたく見える。そしてマスコミ大勢力と外部の人の目には映るのだ。

 しかし近づいて見ると、メンバーが勝手気ままに振る舞っているだけなのだ。メンバーでありながら、常にそっぽを向いている人も大勢いる。しかし誰も咎めない。

 自由と言えば自由な、この鵺(ぬえ)のようなリヴァイァサンは、生まれた時から、そのような存在だった。昭和七年にはじまり昭和五○年代まで、漫画界のど真ん中に居座り、衰えたといっても、今日なお、漫画界の一角を占めているのだから、団体としても生命力にも驚かされる。日本の文化・社会の中では他にその例を、見ないのではなかろうか」(拙著 『評伝・SFの先駆者今日泊亜蘭』 青蛙房 平成一三年)

 漫画集団の持つ自由な雰囲気に、団員はもちろん、漫画関係者、果ては読者の果てまで、あこがれ、好意を持ったのではなかったか。現在の手塚プロの社長、松谷孝征は、以下のように述べたことがある。

「手塚は戦後の児童漫画を作った人物で、後から出てきた後輩は、彼を造物主のように尊敬し、児童漫画の世界では第一人者の道を歩んでいた。

 手塚は漫画のうえでは尊敬する先輩も数少なく、気持ちの上では、児童漫画の先頭に立ち、孤独の道をあるいてきた。漫画集団をみると、尊敬する先輩の横山隆一も友人として尊敬している馬場のぼる、小島功も、その他の漫画家が自由に交流しながら、各々好きな漫画を描いている。

 それを見ていて漫画集団にあこがれを持っていたといえると思う。大人漫画を描いて集団に参加したいという気持ちなかったとはいえないだろう」

 

いかに自由だといって、石子順造が言っているように、漫画集団は、年末の箱根の忘年会だけをやっていたわけではない。漫画集団としての事業なり、行動はきちんと、執り行ってきたから、世間の注目も浴び、あこがれもよびさましたのである。

 集団は、毎月一回は、銀座三丁目の「卯月」という料亭に集まり、集団で行う行事、例えば展覧会とか、ボランテアとしてやる仕事とか、新入会員の推薦とか、その歓迎会とか、集団行動の決定はそこで行われていたのだ。戦後直後から、昭和五十年代まで、それこそ「卯月」の女将さんのボランテア的な料金で、かかさずこの月例会は催された。

 鈴木義司が入会した時、とかくキザで、頭が高い鈴木はぽつんと孤独に座っていると、横山隆一が寄ってきて、まず酒をさして

「鈴木君、集団はこんな何の取り柄もない団体だけどな、これからは僕たちと一緒にやってくれないかい」

 といった。こう横山に下出に出られたら、キザッペも、「ハイ、有難うございます」というしかなかった。

これは、その直後私が鈴木から聞いた述懐である。

「横山さんにああいわれてしまうとなぁ」

 手塚もおそらく横山や杉浦から「君は 漫画の神様と言われるほどの実績を持つ人であるが、これからは、我々とも仲良く付き合ってくれないかい」と懇願されるように言われたに違いない。集団の人々は、かくも大人芸の達者な人物がそろっていた。

そして何か行事をやると決まると、自然に適人者が立ち上がって、おれがやると言い出して、役者が自然に決まっていった。

 

 

  大家たちの金城鉄壁の守り 

 

そんな自由な融通無碍な仲間はどうして出来たのか。それは昭和七年、漫画集団があるきはじめてから、そうだったのだ。なぜか。

昭和初年のモダンな文化的風潮にのって、そのころ欧米で流行したナンセン漫画に影響され、一見、ゲラゲラ笑える漫画を描いていこうとする若い漫画家が、育ってきた。

 しかし、漫画を発表する場所、今でいう、マスコミは既存の大家に占められており、若い改革の意志に燃えた漫画家の食い入る余地はなかった。

当時漫画界には二つの団体があった。一つは北沢楽天、岡本一平を中心にした団体で「日本漫画会」と称した。そこには池辺鈞、細木原青起、水島爾保布、田中比佐良、清水対岳坊、宮尾しげを、池田永一路、前川千帆、谷脇素文、河盛久夫など、錚々たる漫画史に残る名前が並んでいた。

もう一つは、やや進歩的な集まりで「漫画連盟」と言った。ここには下川凹天、宍戸左行、麻生豊、堤寒三、小野佐世男などがいた。この二団体に属する規制の漫画家たちが当時のマスコミの枢要な漫画発表機関を占拠して、新進の漫画家がわりこむ余地はなかった。

 すなわち、東京朝日新聞には、近藤や杉浦の師匠である岡本一平をはじめ、「のんきな父さん」「只野凡児」の作者麻生豊、堤寒三らがおり、東京日日新聞(後の毎日新聞)、には池辺鈞、和田邦坊らがおり、時事新報には、当然ながら、北沢楽天とその一派の長崎抜天、小川武などが腰を据え、読売新聞では下川凹天の「男やもめの巌さん」前川千帆の「あわて物くまさん」を連載し、その他に河盛久夫、宍戸左行、田中比佐良が執筆するという具合であった。

 出版界を見ても、有力誌にあっては根本的に新聞と変わりはなかった。当時の雑誌の仕事をする主力大家の顔ぶれは、田中比佐良、清水対岳坊、細木原青起、水島爾保布、宮尾しげを、谷脇素文、田川水泡などであった。

 これらの大家もそれぞれ傑作を描き、当時の漫画家として大役割を果たしてきたといえる。ただその作品は、すでに時代に合わなくなっていたのは確かである。

 かれらの作品は毛筆で書いた日本画、南画風な絵で、描かれる内容と言っても、政治的な現象や、社会的現象の絵解きするような作品が多く、また絵のわきに三行も四行も、説明文や批判文つきといった、笑いの要素が少ないものであった。風刺やギャグのあまり無いものであった。

「のんきな父さん」「只野凡児」「あわてものの熊さん」などという連載漫画も、日常生活の中のちょっとした滑稽さを描いたもので、風刺、笑いの要素の少ないものだった。

 これに対して当時の新人たちの目指す漫画は、欧米のナンセンス漫画の影響を強く受け、一見げらげらと笑えるナンセンス感覚に満ちた漫画を目指していた。

さらに大家の絵は日本紙に筆で描いたものばかりであった。それに比し、新人たちの漫画は欧米の漫画に習って、ケント紙にペンを以って描いた。これが毛筆では表せない新感覚と躍動感を描出した。

そして彼らの作品は近代的人間認識とそれを伝えようとする情熱に満ちていた。昭和に入ってからのモダニズムの洗礼をうけた読者は、それに共感するだろうと、近藤でも横山でも確信していたに違いない。

しかし何しろ発表の機会と場所がなければ、読者に伝えることができない。当時の新人たちは、そこを悩んだ。

 

 

 集団で売り込む革命

 

そのころは近藤や横山は漫画で、生活していた。横山の描く「新青年」の表紙画は一部で注目を浴びていた。

近藤もコツコツとカット描き等で生活していたが、同門の杉浦はまだ親がかりのフーライ棒であった。近藤に昼飯をたかりに、毎日のようにやってきた。ある時杉浦が、近藤の下宿に駆け込んできた。

「おい近藤、俺たちに革命蜂起の時が来たぞ」

 といった。杉浦が訊きこんできた先輩漫画家の行状 をしゃべり出した。世間に大家と目される数名の漫画家が頭山満に、神楽坂の料亭に招待され、感激のあまり、その一人が裸踊りお見せしたという。その踊った当人が「頭山翁に裸踊りお目にかけるとな、大変お喜びでな」と知り合いに自慢して見せたというのだ。

「俺の言う革命とはこういう漫画家を追い出す革命だ。漫画家の革命だ。こういう革命はいかに実行しようと官憲が弾圧することはあるまい。漫画革命をやり遂げて、低級無残な太鼓持ち漫画家どもを駆逐して、漫画を芸術として、市民権を獲得させねばならん」と杉浦は息巻く。

漫画は明治以来、ポンチ絵と蔑視され、人を笑わせる商売だというので、漫画家も芸人なみに処遇され、ある時期から漫画家は名士に招待されると、裸踊りを見せるのが習慣のようになっていたらしい。

飯沢匡によると、昭和の初め、朝日新聞社の編集室の掲示板に、「今日何時に『ポンチ絵』くる予定」と書かれた紙が貼ってあったのを見たことがあるという。

 そのころ朝日と契約していた漫画家は岡本一平であった。岡本さえそんな扱いを受けていたということである。

 また某大家から、若い漫画家にゴルフを進め「ゴルフをやるとね、とても上層の方々とお付き合いができるよ」と言ったという話も二人は知っていた。

 もともと漫画は日本画家や洋画家の手すさびであったが、本業の方で成功しないで漫画専門なった人多かった、つまりアルバイトのすえに、木乃伊取りが木乃伊に落ちた人が多かった。

新漫画派集団発足当時の仲間たち。前列左から石川義夫、横山隆一、佐宗美邦。後列左から小関まさき、勝木貞夫、杉浦幸雄、近藤日出造、矢崎繁四

新漫画派集団発足当時の仲間たち。前列左から石川義夫、横山隆一、佐宗美邦。後列左から小関まさき、勝木貞夫、杉浦幸雄、近藤日出造、矢崎繁四

 これに反して近藤、杉浦、横山その他、この後「新漫画派集団」にし加盟した人たちは最初から漫画家たらんと志した人であり、欧米のナンセンス漫画の新しい流れの洗礼を受けていたので、彼らは、漫画はいわゆる本画とは全く異種の、マスコミ芸術として、独立した芸術分野として、確立するべきものであると考えていたと思われる。

彼らはそこに使命感を感じていた。そういう彼らからすれば、昔ながらのポンチ絵に満足する先輩の感覚は、払拭すべきアンシャンレジームであった。しかもこのアンシャンレジームが、若い漫画家の前途を、鉄壁のように阻んでいた。

 

それから杉浦と近藤は、新宿の街に出てなじみの飲食店に入り、食事をとりながら、漫画革命の方法について話し合った。二人は自分たちと同じような新人漫画家の集団を作り、集団の力を以って、革命を成就させることに思い当たった。その為に、“一味徒党”を結成しようという話になった。

漫画家への第一歩(昭和7年ごろ) 杉浦幸雄・画

漫画家への第一歩(昭和7年ごろ) 杉浦幸雄・画

 まず前途有望な、若い無名な人物を超党派で選ぶことが第一だという話になった。超党派という意味は、その師匠がだれであるか、その思想傾向とかは問わないという意味であった。

 そこで二人が考えだした案は、「若手漫画家の集団の力により、金城鉄壁を誇る大家の牙城たる新聞雑誌に売り込もうというわけである。集団で行けば、今まであってもくれなかった編集者もあってもくれるだろうし、その時見せる漫画が面白ければ,買ってもくれるだろうという考え方である。或いはまた集団の中で協力すれば、一人では思いつかない知恵も生まれるし、いいアイデアも浮かぶだろう。それによって、みんなで、合作漫画を作って売り込む」(拙著 『近藤日出造の世界』

昭和五九年 青蛙房)というものであった。

こういうアイデアは今日から見れば、何でも無い事だが、当時に漫画界とすれば、考えられもしない古今未曾有のことで、まさに「革命」だったのである。二人は早速一味徒党の勧誘に動いた。

 

近藤らの努力で集まった人の名前を挙げてみよう。まず岡本一平門下の近藤日出造、杉浦幸雄、矢崎茂四。堤寒三門下の横山隆一。下川凹天門下の黒沢はじめ、益子しでを、石川義夫(利根義夫)、横山の友人の吉田貫三郎、白木屋宣伝部にいた小関まさき、加藤武子(のち矢崎茂四と結婚)その他片岡敏男、佐宗美邦、増田正二、中村篤九などであった。かくして昭和七年六月の下旬、本郷菊坂の杉浦幸雄の家で、新団体結成会を催した。

そこで杉浦の提案で、団体の名前をまず決めた。「新漫画派集団」とつけた。集団というのは社会学の用語だし、集団闘争などと、社会主義運動でもつかわれる。プロレタリア運動が盛り上がろうとしていた当時としては、新鮮な感じが出る。派は美術界では印象派、野獣派というように、エコールの意味に使われる。新漫画派集団というと、いかにも新鮮で現代的だという杉浦の主張が通った。

結果的に考えて、この名前を付けたことは大成功だった。(ただし終戦直後、情勢の変化に応じ、漫画集団と改名)

 かくして新漫画派集団の発足となったが、漫画の集団売込み団体として進むことだけを決め、団体の規約、綱領も、会長とか役員とか人事も、何も決めなかった。団体を作って代表者、幹事、など人事を決めないというのは、おかしいことではある。ここに近藤、杉浦の遠謀があった。

近藤は自伝の草稿に次のように書いている。

「新漫画派集団は、規約だの綱領だの会長だの理事だの、という一切の野暮なものを廃して、洒落っ気団体として発足した。仲間はそれを『大人芸』と称し、事実それがグループを延々と持ちこたえさせた『住み心地の良さ』にもなっている…」(前掲書より引用)

 この近藤の話の持って行き方に、肩書嫌いの自由人、横山が賛成し、面倒なことは嫌がる自由人である仲間もそれについてきたのである。これを近藤が集団を永持ちさせた理由というのは、やはり人情の機微をついた、真実と言えよう。

 だからあの手塚治虫さえ、その入会にあこがれたような、集団の雰囲気を維持できたのだといえよう。

ただ一つだけ近藤や横山が、戒めとした一ヶ条を、みんなが認めていたことも、長持ちの原因と言えよう。それは合作まんがなどで、共同執筆するとき以外は、仕事の世話、斡旋などを仲間内ではしないことである。集団員全員がそれを是認し、暗黙のうちにそれを守ってきた。個人で稼げる奴はいくら稼いでも、仲間に仕事はやらない。それをやったら仲間内で、上下の関係、あるいは親分、子分の関係が出来てしまい、平等性が無くなり、共同体にひびが入るからだ。

 それからもう一つ、全員の賛成がなければ、新入会員を入れないということ。これも最後まで遵守された。

 

 

 アナーキズムの実験

 

このような団体に持って行ったのは、近藤と杉浦の密約があったからだ。

 杉浦は本郷育ちの都会っこで、本郷の郁文館中学を出た。思想問題、芸術問題、社会問題などに早くから目覚め、いろいろの遍歴を経て、一平の弟子になったのだが、中学時代から、後のSF作家の草分け、今日泊亜蘭と深い交友を持ち、その影響を受けた。

今日泊は、水島爾保布という漫画家であり文章家であった人の息子だが、大変早熟の秀才であった。小学校五年で、府立五中に合格したが、学校で教わることはないといって、自分で、レクラム文庫などで原書を読んでいるという男であった。

 かれは自家に、父の友人、竹林無想庵、辻潤らが訪れ、彼らに親近し、その影響も受けた。その為にニヒルな思想傾向を持ち、アナーキズム(無政府主義)の思想に共鳴していた。 杉浦は、この今日泊との付き合いで、強い影響を受けており、近藤に知り合ったとき、アナーキズムを盛んに説きまくり、本来がニヒルな傾向を持った近動にも、アナーキズムが伝播したという経過がある。

アナーキスト大杉栄が、憲兵に虐殺されたように、アナーキズムはマルキシズムと並ぶ国禁の思想である。

アナーキズムは一切の政治的権威から人間を解放し、完全な自由社会を作ろうとする考え方で、革命後に労働者独裁制をしき、そのあとに共産社会に移行するという、マルクスより過激な思想である。日本でもアナーキズムの運動が起きたが、国家権力とマルクス主義陣営からも、圧迫され勢力を持ちえなかった。今日泊にしても杉浦にしても、思想的心情的アナーキストで、実践運動に関係は全くなかった。

ただ近藤と杉浦は漫画集団を作るとき、集団には、一切の規約や人事を排して、全員平等にして、アナーキズムの実験場にしてみよう、と言ってひそかに、規約の無い団体を作った。その結果は将来、自然に出るだろうと、二人だけの密約にして、横山にも一切、そのことを話さすに終わった。

このように小さな団体では、それが成功し、約五〇年の生命を保ったわけである。

ここで一言加えておくことは、集団加盟者は、稼ぎの一割は団体維持費として支払うことになっていた。近藤、横山の会費だけで百円になったので、昭和七年にはそれで事務の費用は賄えたということだ。後年団員がふえて稼ぎもそれぞれに変わったので、違った会費額にしたのだろう。

横山、近藤の稼ぎ高がそれだけになったということは、漫画の集団売込みが、大成功を収めたということである。

漫画集団は昭和九年漫画年鑑という冊子を作って、漫画集団の業績を発表しているが、それによると、昭和八年の一年間で、一五の新聞と五十の月刊誌、週刊誌、二つのパンフレットに三万三千三百六十九枚の合作漫画を約二十人の団員で描いている。このほか団員個人の昨品も書いていたわけで、これを見ても分かるように集団売り込みの漫画革命は大成功であった。今までの大家連中はマスコミから。一掃されたといってよいくらいだった。

一般のマスコミも集団売り込みにという新しい戦術に喝采し、興味深く報道してくれた。忽ち従来の漫画の大家たちにお牙城を奪い、漫画界は新漫画派集団の天下となってゆくのであった。

昭和九年というと浅草の榎本健一らのボードビルと並んで、新漫画派集団は「エロ、グロ、ナンセンス」といわれた時代の風潮の先端をゆく存在として、民衆の共感を得たのであった。

 

 

 憲兵に拘引される

憲兵に連行された近藤日出造

憲兵に連行された近藤日出造

 

「自宅で寝ていた私は、頭をガツンとやられたショックで目を覚まし、見上げると、枕元に赤茶色のものが二本。起き上がってみたらその上に軍服があり腕章があり……、赤茶色の憲兵長靴だった。土足のまま二階に突入し、私の顔を蹴っ飛ばしたのである。

皇居近くの憲兵隊本部に連行された。取り調べの中尉が読売新聞をワシ掴みにしたまま、机を叩き、わめいた。

『貴様のこの漫画はなんだ。読売新聞は、恐れ多くも、……起立、立たんかっ!カミゴイチニンがご覧あそばされる新聞だ。キサマは聖慮のほどが分らんのか』」(「読売と私」週刊読売 昭和49年十一月九日号)

 これは多分、昭和十三年ごろ、近藤日出造が新聞に載せた漫画が、憲兵隊を怒らした時のことを書いた文章である。昭和十年以降、日本の軍国主義が進むにつれて、軍部の勢力、権力が急速に台頭したのだが、近藤の痛烈なペンが軍部に向かっても、どうどうと立ち向かった証拠である。

 その絵というのは、ひょろひょろ痩せた裸の日本国民が、重い武器を背負い、泣く泣く針の山を登ってゆく、といった軍国化による国民の負担の増大を風刺する漫画であった。これが軍部を刺激して、憲兵隊に拘引されたのである。

 軍部のお先棒を担いで戦争協力ばかりしていたと、近藤を罵倒し続けた、石子順造氏よ、そして彼の尻馬に乗る評論家諸氏よ、君らが、戦時中ものを描いていたと仮定し、近藤の如く憲兵に拘引されたら、どうするか聞きたいものだ。世間知らずの若い憲兵中尉に向かって、自らの正論を披歴し、説得できるものかどうか。そんなことをしたら、たちまち憲兵の拷問にあったあげく、陸軍刑務所行きが落ちだろう。

 このあと再び、近藤日出造は憲兵隊に拘引された。その時は林銑十郎陸相が、ある事件解決のため、上海に飛んだが、何の成果も上げずに帰国した途端、上海コレラという伝染病が日本に流行した。そこで、(上海土産)と題して、林陸相がトラを連れて帰るマンガを描いたのだが、憲兵隊の忌諱に触れたのであった。

 二度とも近藤は辛くも拘留は免れた。それは近藤が卑屈なくらい、ひら謝りに誤ったからだった。それが単純な軍人心証を和らげたものと思われる。

 近藤は生前、この時の思い出を語った時「愚かなものを相手にするときは、こっちもおろかになることが一番いいんだよ」と私に語った。これは近藤の一つの生き方であった。とすると、石子流の論者ならどうするだろうか。生死をさまよう拷問にあっても、自己の正当性を主張するだろうか。 

 

 話が飛ぶが、昭和一五年、近衛文麿が唱えだした、新体制運動が起きた時、日本中の人間が、新体制のバスに乗り遅れるなと、インテリも労働者も政治家も官僚も、みんな一斉に新体制になびいた。

当時は日中戦争の解決の道が開けず、長期戦の様相のもとで、日本の政治勢力を結集して、高度国防国家を作ろうというのが、新体制運動の根本であった。

その新体制実現のため、出来たのが、大政翼賛会で、昭和一五年十月に発足した。その時翼賛会の文化部長に推されたのが、作家であり戯曲家でもあった岸田国士であった。岸田は戦時下の文化行政を正しい方向に持って行こうと必死に努力した人であった。

 その岸田の人事が決まった時、頼りになる相談相手、つまり文化部副部長として近藤を指名してきた。近藤は、岸田の話を半分も聞かないで、「自分はその任にあらず」といってきっぱり断った。次いで岸田が選んだのは、横山隆一だったが、肩書嫌いの横山もあっさり断った。

 困った岸田が選らんだのは、ベストセラーになった「呉淞クリーク」という戦記小説の作家、日比野士郎であった。誰もが望むだろう、当時の最も期待された大組織の幹部の地位を、こともなげに断った近藤も横山も、一筋縄ではいかない男であった。

 

 今回は手塚のことを離れたはなしが多くなったがこれだけは言っておかないと、漫画集団というものが分らないし、石子順造の主張がいかに馬鹿げているかもわからないので、必要最低限のことを記した次第である。戦時下の漫画家の動きを、次回もう少し続ける。

(続く)

 

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