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“3月13日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1863=文久3年  近藤勇らが京都で新撰組を結成した。

土方歳三、芹沢鴨、沖田総司ら24人の小集団ながら京都守護職の松平容保から不逞浪士の取り締まりと市中警備を任された。何度か隊員募集を行い全盛時は200人を超えたが池田屋事件など凄惨な事件を引き起こしただけでなく隊規違反者の粛清など内部抗争を繰り返したので離反もあり、あの「誠」を染め抜いた旗や衣装で幕末の京を駆け抜けたヒーローだったわけではなかった。

日本の剣客219人に光を当てた杉田幸三の『精選日本剣客事典』の「幕末・明治初期の剣客」には天然理心流の近藤を
「道場剣法では大したことはなかったが、殺人集団の長をつとめるうち、実戦では徐々に腕を上げていたのだろう」と紹介している。
同じく天然理心流の使い手の沖田は
「剣はすぐれていたとみえ、江戸・試衛館道場時代に塾頭、新撰組でははじめ伍長。池田屋事件では近藤とともに襲撃戦に参加したが、持病の結核のため、喀血して昏倒した話が伝わっている。慶応元年、一番隊組長、剣術師範頭。慶応4年正月に副長助勤。が、幕府軍は朝敵となり、鳥羽・伏見の一戦に敗退。東帰。新撰組隊士も幕艦で江戸・品川へ。負傷者、病人とともにこのなかにいる。沖田もそうだった。典医松本良順の指示で療養していたが最期の場は千駄ヶ谷の植木屋の一室で何度も<近藤先生はどうされただろうか>と繰り返し、繰り返していたが鼓動がとまったという。慶応4年5月30日である。近藤はそのおよそ1月前の4月25日、板橋の露と消え、その首は彼らにはなつかしい京都へ運ばれていた」
と長く引用した割にはいいところなしである。

*1867=慶応3年  パリ万国博の視察に派遣された渋沢栄一はインド洋で初めて竜巻に出会った。

将軍・慶喜の名代の弟・徳川昭武の随員としてフランスに向かっていたが「海上に一団の黒雲が生じ、波につながって海水を巻きあげた。ちょうど竜が昇天するような勢いである。珍しい思いだった」と。

*1957=昭和32年  最高裁大法廷で猥褻文書販売被告事件が上告棄却になった。

これって何?と言われそうなので<通称>で紹介するといわゆる「チャタレイ事件」である。イギリスの作家D・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を訳した作家・伊藤整と版元の小山書店社長・小山久二郎が刑法第175条のわいせつ物頒布罪に問われ、被告側は「表現の自由」を中心にして7年間にわたり争ってきたが有罪が確定した。

最高裁は「公共の福祉」論を用いた「わいせつの3要素」として
1.徒に性欲を興奮又は刺激せしめ
2.且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し
3.善良な性的道義観念に反するものをいう

を示したが伊藤は「70、80歳の老人の道徳観をタテにされたんではたまらん」と裁判長を非難した。最高裁の論点はくだいて書くとなにやら<気恥ずかしい>ので箇条書きにしておく。

*1781年  ドイツ生まれのイギリスの天文学者ハーシェルが一対の不思議な星を見つけた。

4日間にわたって追跡するとその星が移動していることが分かった。それが歴史時代になって初めて発見された惑星・天王星だった。ハーシェルはもともと音楽教師で楽団長としても成功を収めた。次第に数学にも関心を持つようになりさらに天文学も学んだ。望遠鏡を製作したり月面の山の高さを測定したりしていたということからも天文学はどちらかというと<余技>だった。

ところが天王星の発見でそれが一変する。王立協会の「コプリ・メダル」を受賞してフェロー=会員に推薦され、国王ジョージ3世から国王付天文官に任命された。ハーシェルは生涯に400以上の天体望遠鏡を製作したが最大のものは焦点距離が40フィート(12m)口径50インチ(126cm)の反射望遠鏡でこれを使って土星の新たな衛星ミマスとエンケラドュスを発見している。この望遠鏡は巨大な大砲のようだったので動かすのには何人もの助手が必要だった。のちにジョージ4世からナイトの称号を受け、王立天文学会の前身・ロンドン天文学会を共同で設立した。1822年に83歳で没したが2009年にヨーロッパ宇宙機関が打ち上げた赤外線宇宙望遠鏡には「ハーシェル」の名前がつけられている。

観測が夜だったからナイトの称号というのは冗談だが、ハーシェルは惑星の配置を得意とする音楽理論に結びつけて楽しんだそうで、いったいどんな理論だったのでしょうねえ。

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