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“3月12日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1938年  ヒットラーがドイツ軍のオーストリア侵攻を指令した。

翌13日には「アンシェルス条約」でドイツとオーストリア両国は合併、14日にはヒットラー自身がウィーンに“無血”入城するという手際の良さだった。彼の故郷だったオーストリアには600万人以上のドイツ人が住んでいたが、活動を始めていたオーストリア・ナチスが厳しい取り締まりを受けたというのが「ドイツ人が圧迫を受けている」と侵攻の名目にすり替えられた。

もとは領土拡張欲に駆られたヒットラーの侵攻の第一目標がオーストリアだったとされる。
国民投票を計画して抵抗しようとしたシュシュニック首相はヒットラーの最後通告を受けて辞任する前のラジオ放送を「神よ、オーストリアを守り給え!」の悲痛な祈りで結んだ。

*1904=明治37年  東京・築地にあった海軍兵学校の校庭で「競陣遊戯会」が行われた。

わが国における「運動会のはじまり」とされる。種目は「スズメの巣立ち」「古ダヌキのつぶて打ち」「ボラの綱越し」などと伝わる。漢字はもちろんスズメ=雀、タヌキ=狸、つぶて=面、ボラ=鯔を当てる。どんな競技だったのかというと「スズメの巣立ち」は150ヤード(137m)走、「古ダヌキのつぶて打ち」はタヌキの顔をめがけてのボール投げ、「ボラの綱越し」は走り高跳びだそうだが、どうしてこんな名前を付けたのかねえ。

明治天皇が海軍兵学校を視察するのに行幸したのでその名がついた銀座の「みゆき通り」。もし天皇に運動会の視察があったなら種目の説明はどうしたのだろう。「次はスズメの巣立ちでございます」なんて。“珍名種目”のほうは早くに消えてしまったところをみるとご覧にはならなかったか。

*1974=昭和49年  フィリピン・ルバング島から元陸軍情報将校の小野田寛郎少尉が帰国した。

ルバング島では「離島残置諜者」として“任務続行中”だった小野田少尉は戦時中の上司・谷口義美元少佐から山下奉文大将名の作戦命令などを受けて“任務完了”を決意した。現地での<降伏式>には当時のマルコス大統領も出席した。ジャングル潜伏29年の行動は跡を残さないようすべて頭の中に記憶したが暦日はわずか6日間の誤差しかなかった。

その2年前にグアムから帰国して驚くほど速く日本の生活に順応した横井庄一元伍長とは違いブラジルに渡り牧場経営を成功させると青少年の健全育成をめざすサバイバル塾「小野田自然塾」を主宰した。

*1876=明治9年  明治政府が4月から日曜は休日、土曜は正午で休暇にすると定めた。

1868=明治元年の太政官布告で「毎月1・6の日を休日」と定めていたが外国と関係のある役所や商社などから不便という意見が強まりこの改訂になった。その後、陸軍省からの払い下げになった野砲を使って測候所や天文台からの合図で正午の号砲を鳴らすようになったのが「ドン」で、東京、静岡、丸亀、長野などは軍隊が管理していた。

土曜はこれが鳴ると午後は休みになったので「半ドン」。日曜日は休みで、家=宅でこれを聞くから「ドンタク」といったが、もとはオランダ語で休日を意味する「Zondag」から由来した<和洋折衷語>だった。「あすはドンタクで朝寝ができる」と使われた。

*1864=元治元年  のちに同志社を創立する新島襄が海外渡航をめざして品川を出港した。

とはいっても乗り組んだのはサハリンに向かうという備中松山藩(現・岡山県高梁市)の「快風丸」で途中、北海道の箱館=函館まで便乗を頼んだ。箱館では神田駿河台にニコライ堂を建てたロシア人神父のニコライの日本語教師として司祭館に住み込んだ。新島はニコライに「脱国」の意思を打ち明けるが反対されたため人を介してアメリカの商船「ベルリン号」の船長セイヴォリーを紹介してもらい乗船に成功、いったん上海に向かった。

上海ではセイヴォリーの伝手で同じアメリカの商船「ワイルド・ローヴァー号」に乗り換えた。船長のテイラーは新島を「ジョー」と呼んで弟のように可愛がってくれたので新島は乗船のお礼に武士の魂でもあった太刀を贈っている。香港ではテイラーに小刀を8ドルで買ってもらい漢訳聖書を購入、航海中はこの聖書を読み続けていた。

新島がボストンに到着したのは箱館を出て1年後だった。アメリカではようやく南北戦争が終結、リンカーン大統領が暗殺されるという大きな出来事が起こった年。新島は3日間かけて脱国と渡航理由を書き、これが船主のハーディーの心を打ったことで養子同然に受け入れてもらうという同志社関係者なら感動の<青雲脱国篇>です。

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