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“1月6日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1807=明治7年  新橋―京橋間に新たに馬車専用の「馬車道」が完成した。

当時の東京は道路が狭く、馬車が通る際に通行人との接触事故が多発するなど危険だった。人出の多い時には馬車の通行が制限されて商売に支障も出たのでこうした不便を解消する目的で「馬車道」が作られた。すれ違うための道幅も十分で馬車の利用は最盛期を迎えた。

しかし、1882=明治15年6月に日本橋―新橋間に鉄道馬車が開通すると普通の馬車は次第に減り、明治の終わりにはほとんど姿を消した。東京では名前も残らなかったが横浜・関内にある「馬車道」は通り名としても健在で2004=平成16年に開通した横浜高速鉄道みなとみらい線に「馬車道駅」が新設された。

*1953=昭和28年  東京消防出初式がこの年から1月6日の開催となった。

出初式が始まったのは江戸時代の1659=万治2年で、消防組織の定火消(じょうびけし)によって1月4日に江戸・上野東照宮で行われたのが始まりとされる。火事が頻発した江戸では「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた。幕府はまず武士による火消=武家火消を制度化して大名に課役を命じた。

ところが1657=明暦3年に発生した「明暦の大火」では火勢が食い止められず江戸城天守閣を含む江戸の大半が焼失して最大10万人ともいわれる被災者を出した。その反省から生まれたのが幕府直轄の定火消で、4千石以上の旗本から4人が選ばれ火消人足とともに消防署の原型になる火消屋敷に寝泊まりして消防活動にあたることになった。

その翌年に始められたのが上野東照宮の出初式だった。参加したのはそれぞれの屋敷に所属する4組で、いわば<顔見せ>として境内で気勢を上げた。年々、規模も大きくなって儀式化し、纏(まとい)披露や梯子乗り、木遣り唄などが庶民の人気を集めました。

*1881=明治17年  「朝野新聞」に全国新聞紙購読表というデータが紹介されている。

国別:1.武蔵(1日の平均部数62,974部)2. 摂津(以下同じ17,040部)3. 尾張(4,695部)4.越後(4,082部)5.信濃(3,503部)6.美濃(1,995部)7.下総(1,895部)8.肥後 (1,364部)9.肥前(1,251部)10.常陸(1,210部)11. 安芸(701部)12.伊予(593部)以下略 総計 155,039部

これがどういう方法で集計されたのかまでは書かれていないが廃藩置県のあとも旧の国別で紹介されているのは興味深い。1日当たりの平均部数でみるとやはり東京、横浜をもつ武蔵がダントツで、大阪を含む摂津、名古屋を含む尾張という順は順当だが越後、信濃が意外に多い。首都圏の千葉が含まれる下総の前に美濃が割って入るように続いている。

わが国に新聞らしい体裁を整えたのは1870=明治3年12月に最初の日刊紙として発刊された『横浜毎日新聞』からとされる。その後、『東京日日』『郵便報知新聞』などが次々に発刊されていった。では順調に部数を伸ばしたのかというと山梨県甲府で発行されていた『峡中新聞』の1873=明治6年1月の紙面には「貸新聞屋」の広告が載っている。

見料則以下の通り

一、午前五時ヨリ午後五時マデ  一時間半銭
午後六時ヨリ同、十時マデ  一時間八厘
一、宅外貸出ノ分ハ五日限リ定価十分ノ二ヲ申シ受ク可ク候

「見料則」とは「料金・システム」という意味だろうから店舗で見せるだけでなく貸し出しまでやっていた。それから十数年後の新聞購読部数はこのデータでは総計でも155,039部だから新聞購読はまだ少なかったことがわかる。

新聞の発行部数のデータである現在の「ABC調査」にある意味では匹敵すると思っていただければ一興ではあります。

*1822=文政5年  『浮世風呂』『浮世床』などの名作を残した江戸の戯作者・式亭三馬47歳で没。

八丈島の神官の出だった父が江戸に出て刷り物を彫る版木師になった関係で三馬は9歳から17歳まで本屋に奉公した。その後、黄表紙作家になり、古本屋や売薬店を営みながら草双紙、洒落本、黄表紙などを手がけた。売薬では「仙方遠寿丹」や自家製の化粧水「江戸の水」を手がけたが薬などの宣伝を自ら書き、そのお客が本の読者になるという作戦が成功し財をなした。「商売人」兼「作家」兼「コピーライター」というのは誰かさんみたい。

「浮世シリーズ」は銭湯や床屋での庶民の会話をそのまま描写して人気を呼んだ。残した言葉は
「競って虚を商ひ、競って虚を買ふと思へば、虚ほど面白きものはなし」。

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