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池内 紀の旅みやげ⒇ 松岡兄弟絵馬─兵庫県福崎町

大きな神社には絵馬堂があって、ところ狭しと絵馬が掲げられている。拝殿が兼務しているところもあって、かたちばかり拝んだあと、丹念にながめていく。江戸の末年、明治二十年代の年号入りが多いのは、当時、絵馬奉納が流行していたのだろう。大正・昭和もなくはないが数が乏しい。戦後になると、ほとんど見かけない。

奉納にあたっては手順があったと思われる。神社の了承をとりつけたあと、絵馬師に注文する。絵柄は奉納者の願いの筋によって決めたのだろう。エトや故事、ことわざにちなむものは絵柄のマニュアルがあったはずだが、型どおりではおもしろくない。絵馬師が新味を工夫した。芝居のシーンをとりこむとき、役者の特徴を上手にあしらった。額に入っている点でも立派な美術品だが、絵馬師は巷の芸術家であって、美術辞典にのることはない。

すっかりとだえたと思っていたら、珍しい近作に出くわした。兵庫県神崎(かんざき)郡福崎(ふくさき)町。そこの田原地区の氏神さまである鈴の森神社の拝殿にかかっていた。昭和五十九年(一九八四)七月吉日の日付。五人の肖像が描いてある。上段中央の顔に見おぼえがないだろうか。柳田国男である。まわりに四人いて、計五人。

福崎神社に祀られている松岡兄弟絵馬、柳田国男さんは?

福崎神社に祀られている松岡兄弟絵馬、柳田国男さんは?

「柳田」は養子にいった姓で、もともとは松岡といった。父・松岡操(みさお)、母・たけ。八人の子供が生まれたが三人が早死にして、五人がのこった。長男は医者になった。二番目は眼科医のかたわら歌を詠み、宮中の御歌所寄人に任じられた。国男は六男だったが、実質的には三番目で、高級官僚を経て四十代で官を辞し、民俗学という新しい学問を打ち立てた。すぐ下の弟は海軍大佐ののち軍務を去って国語学、言語学の学者になった。末弟は画家になり東京美術学校(現東京芸大)教授。杉山寧、高山辰雄などの俊英を育てた。

松岡家は当地福崎の古い家系だが、六男が生まれたころは貧乏のどん底で、家、土地を売り払って長男の学費をつくり、医者開業後は長兄が一家を支えた。柳田国男も十二歳のとき兵庫県の親元をはなれ、茨城県布川(ふかわ)といって、長兄のいる利根川のほとりにうつった。

そんな有為転変があったにせよ、五人兄弟はそれぞれ個性を発揮して、大きな仕事をした。生地福崎町には記念館があって、生家が保存されている。

松岡五人兄弟絵馬には、「還暦/古稀記念」として、二人の名前が記されている。ご夫婦で、妻が還暦、夫がめでたく古稀を迎えた。これを祝って奉納したわけだが、むろん、五人兄弟絵馬が世にあるわけではない。奉納者はおめでた夫婦の息子のようで、どうやら医者兼日曜画家らしく「画医」「謹画」としるされている。さして上手とも思えないが、民間の習俗を重んじた柳田国男には、絵馬奉納が似合っているかもしれない。

鈴の森神社は、山裾のやや高いところにあって、拝殿わきにヤマモモの古木が繁っている。柳田国男の回想によると、境内は子供たちの遊び場で、ヤマモモの実がみのると、木のぼり上手がまだ青いのをもいで食べていた。国男少年は福助のように頭が大きく、木のぼりが下手だったので、拝殿前のコマ犬にまたがってながめていた。のちに歌にした。

うぶすなの森の山ももこま狗(いぬ)は

なつかしきかな物いわねども

すぐとなりに生家が移築してある。茅葺き、土間つづきの台所。間取りは田の字型をしており、四畳半の納戸、三畳間が二つ。ただこれだけの家に、一時は両親、長兄夫婦、それに子供たちがいた。「私の家の小ささは日本一」と、柳田国男はくり返し語り、この小ささという運命に民俗学の根があったことを述べた。それは五人兄弟がそれぞれに世に出て、独自のことをなしとげた根っこでもある。

小さな町だから、一時間もあれば一巡出来る。私自身、福崎の隣り町姫路の生まれだからよくわかるのだが、播州はとても暮らしよい土地である。播州平野でゆたかに米がとれ、海、山、川がまわりにあって、海の幸、山の幸、川の幸に恵まれている。冬あたたかく、雪はめったに降らず、台風もなぜか東西にそれて播州には来ない。さして努力しなくても一生安穏に暮らせる。

松岡五人兄弟は、いずれも郷里を出て、よそで努力をした。絵馬の人物になるためには、暮らしいい故里は捨てなくてはならない。

【今回のアクセス‥JR姫路駅で播但線に乗り換え、約三〇分で福崎駅。そこから徒歩二〇分で鈴の森神社】

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