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書斎の漂着本(90)蚤野久蔵 新鬼平犯科帳「誘拐」

池波正太郎の人気シリーズ「鬼平犯科帳」は『誘拐』の連載3回目を月刊『オール讀物』に発表したところで著者の死去により未完となった。帯に「最終巻!」とあるように逝去直後の平成2年7月に文藝春秋から単行本として出版された。ご存じのように盗賊どもから「鬼の平蔵」と怖れられている幕府の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵が、配下の与力・同心、密偵たちを従えて、怪盗妖盗を相手に毎回水際立った活躍をする。スリルのなかにユーモアがあり、サスペンスの陰に濡れ場がある。しかも通り一遍の勧善懲悪ではなく、江戸の風物や四季折々の食べ物などが登場して忘れがたい味を添える。

池波正太郎著『誘拐』(文藝春秋刊)

池波正太郎著『誘拐』(文藝春秋刊)

所有する単行本はこの一冊だけだが文庫は旧版と、同じく日本画家・橋田二朗画伯の挿絵が表紙を飾る新装版を取り混ぜて24巻すべてを持っている。読み出したらクセになるのに加え「そのことについては〇〇で詳しく述べておいたが」と書かれているとどうしても確かめたくなるので手放せない。作者を問わず「お気に入りのシリーズがある」という皆さんならおわかりいただけるのではあるまいか。とはいえジャンルを問わず乱読の私、毎月の『オール讀物』を欠かさず購読していたわけでも単行本や文庫が出るたびに次々に求めたわけではない。うち何冊かを読むうちその魅力にどんどん引き込まれていったわけで、この『誘拐』もたまたま古書店の均一棚で見つけたのだから根っからの鬼平ファンからすれば<新参者>のそしりは免れないだろう。

おさらいしておくと長谷川平蔵は江戸時代中期に実在した人物である。長谷川家は大和国=奈良県長谷川にルーツがあってその地名を姓とし、戦国末期に籐九郎正長が徳川家康に仕えて以来、代々旗本として四百石を知行した。平蔵の没年は寛政7年(1795)で享年50歳だった。幕府の西丸書院番、御先手弓頭などを経て火付盗賊改方長官となり当時は大川と呼ばれた隅田川の中州の石川島に罪人たちの更生保護を目的とした人足寄場を創設して運営を任された。激務に追われ休む間もなかった人生の<早すぎる死>だったが生年月日も含め細かい記録までは残っていない。シリーズ最初の『本所・桜屋敷』に詳しく描かれた平蔵の生い立ちなどはすべて池波の創作である。池波によると籐九郎正長から八代後の宣雄が平蔵の父で、末弟の三男坊に生まれた宣雄は謹厳実直な人物ではあったが養子の口もないまま長兄の世話になっていた。三十近くになっても妻を迎えることもできない寂しさから下女のお園に手を出し、その腹にやどったのが平蔵である。お園の実家は巣鴨村の裕福な農家・三沢仙右衛門家だ。宣雄は長谷川家の跡を継いだ長兄の子である甥の逝去で家督を継ぐため姪の波津と結婚したあとも平蔵は17歳の夏まで祖父である巣鴨の仙右衛門宅で暮らし続けた。継母となった波津は気性も激しく自分で後継ぎを産みたいと言い続けたため平蔵の引き取りを頑なに拒んだが女子しか生まれなかった。ようやくあきらめて平蔵を屋敷に迎えてもことあるごとに「妾腹の子」と言い立てるだけでなく、食事も奉公人と同じ扱いとするなど死ぬまで苛め抜いた。

反発した平蔵はしばしば屋敷を抜け出し、本所・深川界隈を根城にして無頼の者と交友した。放蕩三昧の一方ではその腕力で盛り場や悪所にはびこる無頼漢たちを押さえ「入江町の鬼」とか「本所の銕(てつ)」と呼ばれたことが紹介される。こうした前半生が昔なじみの登場人物たちにも投影される。火付盗賊改方はあくまで犯人を追跡し、身を挺して悪と闘う。厳しさと優しさを併せ持ち、部下の統率にも優れ、多くの密偵からもこの人のためならたとえ命を捨ててもと慕われる。平蔵はまさに民衆の下情に通じたキャラクターだけに長官(おかしら)にはうってつけの人物で、そこも読者をとらえて放さない。「人間というやつ、遊びながらはたく生きものさ。善事を行いつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」という人間観はそれまでの捕物帳とはひと味違い、江戸の暗黒街や盗賊、武家社会、そこからはみ出た浪人まで眼を配った<世話物>の連作である。単行本では7冊が「鬼平犯科帳」その後の12冊が「新鬼平犯科帳」として出版された。

さきに新参者であることはお断りしておいたが創作といえば「犯科帳」というタイトルも連載を始めるにあたり「いわゆる<謎とき>の捕物帳を書くつもりはなかった。そうした小説は、これまでに何人もの作家が手がけているし、どうしてもパターンが決まってしまう」と書いている。22年にわたって書き継がれた人気の連作だけに盗賊たちのユニークなネーミングだけでなく多くの用語が生み出された。例えば盗賊の仕事は「盗(つとめ)」、押し込みに適当な商家を探し、屋敷の図面や財産、使用人の人間関係などを調べ上げて情報を盗賊に売る仕事を「嘗役(なめやく)」フリーランスの盗賊を「流れ盗(づとめ)」、その紹介や周旋にあたるのが「口合人(くちあいにん)」といった具合である。池波は「真の盗賊」のモラルとして繰り返し

一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
二、つとめするとき、人を殺傷しないこと。
三、女を手ごめにせぬこと。

をあげるが、それだけの仕事の準備には長い時間と費用がかかるから鬼平の時代には荒仕事に走る輩が増加した。鬼平は三カ条から外れた泥棒はあさましい「急ぎばたらき」「畜生ばたらき」として容赦しない。

ところでこの『誘拐』は未完ながら読者アンケートでは常に「ベスト5」に入っているという。他の長篇は5回か6回で完結するからようやく半ばにさしかかったあたり。女密偵のおまさが誘拐され、その背後に幾組もの盗賊の影が見え隠れする。なかでも有力なのが炎の赤い色、火付けに異常な関心をもつ女賊でレスビアン、荒神のお夏である。密偵であることを隠して一味に加わったおまさとは過去に盗めが終わったら上方で一緒に暮らそうと約束しながら裏切られた。おまさは命を失うことも覚悟の上で「おとり」になることを申し出た矢先に賊の手中に落ちた。火付盗賊改方は同心や密偵総動員でおまさ奪還に動き、ついに誘拐にあたった浪人たちの隠れ家を突き止めたところで終わっている。

池波は対談で「いまさら綿密なノートをとったり、構成を組み立てから書き始めるということはできない。書き出しても結末がどうなるなんてことは自分でも分からないんですよ。登場人物である密偵たちが危難にあうのも彼らの過去と性格とかが抜き差しならないものになってしまっているからではないかなあ。ばかばかしいと思われるかもしれませんがね、ペンで作り上げた人物が本当に生命を持ってしまうとしか思われないときがあるんですよ」と語っている通り、それからの展開は何も残さないまま逝ってしまった。果たしておまさはどうなるのか、お夏との濡れ場は・・・ここまで書いて来てちょっとドキドキしてきたことを告白しておく。

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