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書斎の漂着本(80)蚤野久蔵 団塊の世代

「団塊の世代」なる用語は堺屋太一の『団塊の世代』(講談社)で、時事用語という枠を超えてわが国の現代史に定着した。「団塊の世代」とは1947年(昭和22年)から3年間にあたる「第一次ベビーブーム」に生まれた世代で、厚生労働省の統計によると合計出生数は約806万人にのぼる。私自身も「団塊の世代」であるし、高校時代の同級生とやっている共同ブログも「団塊の広場」と名付けている。

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境屋太一著『団塊の世代』(講談社)

この本は、話題の新刊本には目がなかった父の書棚に残されていた一冊である。父からは本好きの私に蔵書のすべてを遺贈されたが、まだ多くが実家の本棚に残ったままで、帰省した折に少しずつ持ち帰っている。本の発売は1976年(同51年)11月5日で、かなりの売り上げを記録したはずだが、意外なことにベストセラーにもこの年の流行語にもなっていなかった。なぜだろうと調べたら、この年はロッキード事件に揺れ続けた1年で、疑獄、金権政治、証人喚問、灰色高官、鬼頭判事補ニセ電話事件、ピーナッツ、フィクサーと、この事件から生まれたものがほとんどを占めている。他には冒険家・植村直己の北極圏単独踏破、NHK山下記者に五つ子誕生、モントリオールオリンピック。小売業界では「(団塊の世代の)ニューファミリーをねらえ」が合言葉になり、洋画は「タクシー=ドライバー」、「カッコーの巣の上で」。邦画は「不毛地帯」、「犬神家の一族」。音楽では都はるみの「北の宿から」がレコード大賞と歌謡大賞をダブル受賞、山口百恵の「横須賀ストーリー」やピンク・レディの「ペッパー警部」などがヒットチャートにのぼった。社会問題は「団塊の世代」より、その父親や母親世代の「高齢化問題」がクローズアップされている。

おっと、歴史ライターとしての血が騒いでつい脱線してしまった。本題に戻ろう。

執筆当時、堺屋は通産省に在籍していた。東京大学工学部建築学科在学中に学内コンペで受賞したものの、飽き足らず経済学部に転入して卒業した経歴は、わが国初の大阪万博の企画・実施に携わるという<起用>にはピッタリだった。期待通りの成功を収め、その後に手がけた沖縄海洋博、自然エネルギーを中心としたサンシャイン計画などに参画した。前年に発表した小説『油断』と『団塊の世代』で同じく来るべき近未来社会を描くことで、いまの日本を<予言>して見せた。

冒頭、「団塊の世代とは・・・・・」としてこう掲げる。

1960年代の「若者の反乱」は、戦争直後に生まれた人口の膨らみが通り過ぎる風であった。かつてハイティーンと呼ばれ、ヤングといわれた。この「団塊の世代」は、過去においてそうであったように、将来においても数数の流行と需要を作り、過当競争と過剰施設とを残しつつ、年老いて行くことであろう。

第一話の「予機待果」は音響機器を主力としてきた電気工業会社の社長秘書役付を経験した若手エリート社員が、不振脱却の切り札として新規事業の「コンビニエンス・ストア・チェーン計画」を立案する。一気に12店舗を開店したものの、慣れない職場で販売は計画通りには伸びず、落後者が続出するなか、自らも大阪の地方都市の店長を命じられ妻と子供二人を連れて赴任する。「予機待果」とは機会を与え、成果を待つという意味で、これを人間主義経営の柱としていた明治生まれの老社長の辞任や、銀行からの圧力などにより事業撤退に追い込まれ、退職金代わりに個人店主として切り捨てられる。苦労してついてきた妻の反応は・・・。第二話の「三日間の反乱」は会社再建のための工場跡地売却を巡る株主総会の混乱に巻き込まれる中堅社員たちの戦い済んでの意外な結末。第三話の「ミドル・バーゲンセール」は大手銀行から取引先の百貨店の外商部員に出向させられたミドル管理職たちの悲哀がこれでもかと綴られる。

最終章、第四話の「民族の秋」は、二十世紀があとわずかで終わる年、老人対策事業の予算獲得に奔走する総理府参事官の奮闘ぶりが描かれる。大臣折衝であげたささやかな成果をねぎらう部内での飲み会で「老人を社会として扶養するのは国民の義務だからね。それになんといっても、今の老人、これから十年十五年の間に老人になる人たちも含めてだが、その人たちこそ、あの高度成長時代を演出し、今日の豊かな日本を築いた功労者なんだから」と話す参事官に、若手たちは「僕らはむしろ責任者だと思いますよ。あの高度成長時代、それに続く七〇年代、八〇年代の、まだまだ日本に力があった頃を無為無策に過ごして来たことの」とか「先のことを考えないで、福祉だとかレジャーだとかで民族のバイタリティーをことごとくその日の消費に使ってしまった責任世代なんですよ」と返された言葉が鋭く胸に刺さる。さらに「日本民族の春と夏は短かったんですよ」と言われ「そうか、今は民族の秋か」と力なくつぶやくと、心の中からは、<冬の準備を急がねばならん>という声が聞こえていた。

各章は十年経過ごとの時代設定になっていて、われわれ「団塊の世代」の断面があざやかに描かれる。改めて読み直してみると堺屋の「読み」は<その後の十年>でもかなりの確率でその通りとなった。ということは、われら「団塊の世代」は、ほとんど準備なく「冬」に突入してしまった、ということになるのだろうか。足元からじわっと寒気が這いのぼって来るような読後感である。

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