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書斎の漂着本(74)蚤野久蔵 雨の夜明けの物語

何とも不思議な題名ではないか。『雨の夜明けの物語』は時事通信社から昭和49年(1974)に出された『京都の記録』(1-6巻)の「別巻・聞き書き集」である。本体のほうは場所を取るので、とっくの昔に処分したのに関係者から直接話を聞きとるオーラルヒストリーの面白さからこれだけは残しておいた。

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イタリア・ルネサンス研究が専門の歴史学者にして<保守派の論客>として鳴らした京大名誉教授の会田雄次と文芸誌編集長などを歴任した八木岡英治の共同執筆となっている。会田が解説にあたる『京都人の生き方』を書き「聞き書き」はすべて八木岡が担当した。八木岡の後記に「昭和の早いころ、人は見たであろう、京都の町を、辻から辻へ、背をこごめて歩きまわる痩せ犬のような学生を。三十年後、学生は老い、同じような空虚な眼と重い背中を負って歩いてゆく。違っているのは肩に食い込んでいる重い鞄があることであった。鞄にはテープレコーダーが入っていて、テープの数は三十本以上におよんだ。会田さんには貴重な方々を紹介しいただきお世話になった」とあるからだ。八木岡は会田と同じ京大文学部卒だが少し先輩にあたる。題名は冒頭の『雑魚寝(じゃこね)の夢』に登場する老妓に「私はおもてだった話でなく、雨の夜明けにこの老妓の寝物語をきくこころで立ち入った話だけをきき出そうとした」から取られたことが分かる。老妓の名は滋賀県の彦根出身の吉勇、明治の終わりころに祇園町に来て大正4年に芸妓になったという。

「そうどすなあ、わたしらといっしょにこのまちにいやはったひとでも、ゆくすえはさまざまどすなあ」から始まる一代記は、大正時代の最盛期には2千人もいた芸妓が数百人にまで減少してきた取材時の退潮期までが老妓の人生に重なるように語られる。実名で登場するのは菅楯彦、岸田劉生、堂本印象、西山翠嶂、「舞妓ばかりかいてはった」土田麦僊など京都画壇の重鎮たち。作家では吉井勇と谷崎潤一郎。なかには「銀閣寺の先生、日本画のえらい先生どすけど、この方がお酒おのみやすと往生しましたわ。道具屋(画材屋)つれてようおみえになって、おいお前ら墨すれ、いうてすらせてバケツにあけて筆もってこさせてかかはったり・・・」とだけでこちらは名前なしだが「みなよう遊ばはった」と。

雑魚寝とは、などと無粋な説明をする気はさらさらないが、なかでもおもしろかったのは「わたしら長いこと見てましても祇園町だけで財産つぶさはったという方はまあおへんわ。こういうこというてきかせる旦那はんありました。おなごには惚れて使うてもかめへん、おなごぐらいではうちの財産のうならへん、おとこに惚れな、つまり株やな、これだけはあかん。わたし聞いてまして、世間ではおなごが悪い悪い、まるで鬼のようなこと言うてはるけど、おなごなんて知れたもんや、男に惚れるほうがどれだけこわいかわからへん。ほんまにそのとおりやろなあ、思いましたな」。

この人と引き合わせ、座に立ち合ってくださった京都の貴人は花見小路から出て夜ふけの四条通を歩きながら「はじめて聞いたなあ、ああいう話。おもしろかった」と嘆息をこめて言われた。約束によって名を伏せた。さしさわりを恐れるのは当然のことである。吉勇という名の人が現にあるかどうか知らないが、その人はこの稿と何のかかわりもないことをはっきりと書いておかねばならない、とわざわざ注釈がある。話自体はもちろんちゃんとテープに収めたのだろうが。

脚本家で映画監督・溝口健二の最盛期の作品で知られる依田義賢(よだよしかた)がはじめて語る溝口の秘話も興味深い。東京の下町生まれの溝口は京都で大監督といわれるようになった。

溝口さんは巧い人とはいえませんでしたね。<人生とは・・・>てなこと、あの人はどっかで大上段にやらんといられないものにかりたてられる。しかし、それではならないのでどうすれば大上段がそう見えなくなるか、ということで苦しまはったのが溝口健二や、とわたしはそう思いますね。そこのところですよ。今日はじめて言うことやし、言わされてしまいましたけど、違うといえば、そのへんのとこなんです。彼は実は大上段にやらなきゃいけないんだと思ってた。まわりが、そうするようにさせるんです。それは大きく言えば京都というものがそうさせるのであって、京都の美学・・・ですか。そう大げさにいわれると困るけど、欧米の翻訳文化の肌合いをもったものでは土着まで食い込んでこない。京都などという伝統の文化の密度の濃いところは、その土にしみこむように練成されたものでないと浸透しない。そこをわかってもらえなかったら祇園も語れないし、御所も語れないんですよ。大文字一つ、とぼらへんのですよ。根はじつに深いんですよ。それをつぎはぎでやってゆくようではこれはあかん、というんです。上澄みだけやってたんでは、なにかやったつもりでも、なんにもやったことにならんのですよ。そこまで考えてやらんのやったらどんなええ格好でも「あほなことやめときやす」と京都の人は言いますやろ。ぼくもそれを言いたい気持ちですなあ。

溝口秘話が土着の京都人である<依田流京都論>になっていく。「祇園で野暮な遊びがでけんようでは遊んだことにならんのや」と言い切る<古き良き祇園>もいまやすっかり様変わりしてしまったらしいけれども。

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