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“8月16日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1945年  日本敗戦の情報が伝わったブラジルで突如として<勝ち組>が動き出した。

中心になったのは前年5月に陸軍退役中佐・吉川順治らが設立した臣道連盟という右翼団体だった。1901=明治34年に設立された国粋主義団体・玄洋社の<海外工作センター>ともいわれた国龍会の流れをくむとされる。国龍会は「最も危険な影響力を持つ」としてGHQによって真っ先に解散させられたことでも知られる。

臣道連盟はこの日突然、ブラジルのラジオや新聞に「聖戦は皇国の勝利のうちに終わった」というニュースを流し始めた。特集番組では重光全権大使、梅津参謀総長らが終戦協定締結のために乗り込んだミズーリ号のマストの星条旗を日章旗に<すり替え>たり、偽勅語を定期的に流布するなど巧妙かつ組織的に行われた。何が事実かを確かめる手段がなかった当時、それはたちまち各地のコロニア(日本人社会)に伝わった。デマはさらに広がる。「皇軍五十万が米本土に上陸した」、「トルーマン(米大統領)が陛下に土下座した」、「哀れマッカーサー将軍、遂に現地で馘首となる」などきりがない。彼らの思想は「今次の大東亜戦争は神武集団の大精神、八紘一宇の大理念のため戈(ほこ)をとりたる聖戦なり。さしも暴戻(ぼうれい)なる敵も、わが正義の前には抗すべくもあらず・・・」と内実とは裏腹に一見立派そうなものだった。

それに対して情報量が多かった都市部を中心に敗戦の事実を認めようとする<認識派>が増えて来ると臣道連盟は<テロ団>を組織して認識派リーダーの暗殺を図る。翌年3月7日のサンパウロ州バストス市で市の産業組合専務理事の殺害を皮切りにわずか1年間に26人が殺され、無数のリンチ傷害事件が発生した。一方では「祖国では人が足りなくて困っている。財産を処分して帰国し陛下に尽くすのが臣の道。ついては私らが財産を預かっておいてやろう」という詐欺事件も横行した。

1950=昭和25年11月、<勝ち組事件>が社会問題化したことでブラジル政府もようやく摘発に乗り出す。まずサンパウロ州の警察が臣道連盟の幹部60人を一斉に逮捕、政府が各州の連盟に解散を命じた。しかしブラジルは広大な国である。ジャングルの奥に逃げ込んだ彼らはこの先もまだ<神国の勝利>を叫び続けた。

「何で?」と言うのはたやすい。戦前の皇国教育で育ち、異郷で孤立したが故に愛国心を増幅され、さらに正確な情報を与えられないままに公共放送や新聞で繰り広げられた臣道連盟の<作戦>を信じ込み、詐欺に易々と巻き込まれたのを<無知>と笑うことはできない。さらに5年後の1955=昭和30年11月には「桜組」を名乗る<戦勝派>の100人がサンパウロの日本総領事館を襲撃する事件まで起きた。歴史の谷間、密林の奥の奥に妖しい桜は咲き続けていたのである。

*1928=昭和3年  パリを愛し、パリを描いた画家・佐伯祐三、パリに死す。

1898=明治31年4月26日、大阪・中津の光徳寺の次男として生まれた。旧制北野中学から東京美術学校西洋画科に進んだ。卒業した1923=大正12年に学生結婚した妻とパリに向かう。そこで佐伯は野獣派=フォーヴィスムの巨匠ヴラマンクを訪ねて自信作だった裸婦像を見てもらう。ところがヴラマンクは絵を見た途端「このアカデミックめ!」と一喝、ショックを受ける。画風の旧態依然さを叱り飛ばされたわけだ。

そこから佐伯の“模索”が始まる。ヴラマンクを何度か訪ね、里見勝蔵や荻須高徳らと交友したのもこの頃だ。ユトリロの作品からも影響を受けた。佐伯は死までの6年間2度にわたりパリに長期滞在し、街頭風景や人物像を書き続けた。絵の中に広告などの活字を書き込んだ作品が多い。しかも破れ、はがされた跡まで丹念に描いたことでその日、その時のパリが残された。『オーヴェールの教会』『パリの裏街』『広告のある門』『テラスの広告』『郵便配達夫』などの代表作のほとんどはパリで描かれたものだ。

2度目の滞在は1927=昭和2年8月から。翌年3月頃から持病の結核が悪化し、名作『黄色いレストラン』を描き終えると妻に「これで僕の仕事は終わった」と話した。間もなく喀血、精神的にも不安定になる。セーヌ県の精神病院に入院すると一切の食事を拒み衰弱して死んだ。30歳の早過ぎる死だった。

*1949=昭和24年  古橋広之進が全米水泳選手権大会の1500m自由形を世界新記録で優勝。

日大水泳部所属の古橋は18分19秒0という圧倒的な記録をたたき出し大会前に一部の米国民からジャップと呼ばれた敗戦国民の悔しさを一蹴した。続く18日には400m自由形4分33秒3、19日には800m自由形9分33秒5でいずれも世界新記録を樹立したことでアメリカの新聞が「フジヤマのトビウオ(The Flying Fish of Fujiyama)」と呼びその快挙をたたえた。遠征はサンフランシスコ講和条約締結前だったこともあり米ドルがなく日本水連幹部や在米の日系人からの寄付で実現した。昭和天皇やGHQのマッカーサー元帥から渡航前に激励を受けただけにこの快挙に国中が湧きたち、以後は古橋=フジヤマのトビウオがトレード・ネームとなった。

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