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“7月17日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1912=明治45年  第5回オリンピック夏季大会のマラソン競技がスタートした。

開催地の北欧スウェーデンの首都・ストックホルムは快晴で朝から気温が上がり続けた。日本が初めて参加したマラソン競技がスタートするころにはすでに気温は35度を超えた。マラソンは北欧での人気種目だけにスタジアムに続く沿道には応援の人垣ができていた。エントリーした選手は68人、日本期待の金栗四三は最後尾集団でスタジアムを後にした。履いていたのはトレードマークの<金栗マラソン足袋>でこのために何足かを持ち込んだ。足袋の具合は思った以上に良かったが金栗は体全体にこれまでとは違う違和感があった。

東京高師の2回生で迎えた前年の国内予選会で当時の世界記録をいきなり27分も縮める好タイムで優勝して以来、国民の期待が日を追って強くなった。自分なりに練習は積んできたつもりだったが正式にオリンピック選手に選ばれてからは新聞、雑誌の取材や各方面への挨拶に忙殺された。そして大騒ぎのうちに5月16日に新橋駅を出発、敦賀から船で大連へ。そこから当時は東清鉄道経由だったシベリア鉄道に揺られて18日がかりの北欧到着だったからまさしく大旅行だった。いちばんこたえたのは食事に米飯が用意されていなかったのと白夜なのでどうしても眠りが浅いこと。練習を一人だけで行うのも勝手が違ったし、やればやるほど疲労が溜まっていくように感じた。14日の開会式も参加選手は陸上の2選手だけだったから金栗が「NIPPON」のプラカードを、短距離400mの三島弥彦が国旗を持って行進した。式後に嘉納治五郎団長ら役員から「本番はがんばっていけ、お前たちなら大丈夫だ」と激励されたのにそろって短く「はい」と答えただけだった。まず三島がふるわずに終わったから金栗は、日本人として記録を残せるのは自分しかいないというプレッシャーを背負い込んでいた。

それにしても暑い。5キロ過ぎから早くも脱落する選手が相次いだ。体感温度は40度を超えているか。おまけに体が重い、けさ、宿舎まで迎えに来るはずだった車がいくら待っても来なかったので競技場まで走ったのも悪かったか。15キロを48位で通過、20キロを何とか通過、あとは良く覚えていない。気付いたら朝だった。寝かされていたのは農家の一室のベッドでそばには足袋がそろえて置いてあった。マラソン競技は過酷を極めた。ゴールしたのはちょうど半分の34人。暑さによる体調不良がほとんどだったがゴール後に倒れたポルトガル代表のフランシスコ・ラザロは意識が戻らないまま翌日息を引き取った。

それから55年目の1967=昭和42年3月21日、75歳の金栗は同じストックホルムの地に立った。スウェーデンオリンピック委員会が記念行事に招待したのだ。セレモニーで用意されたのはマラソンゴール。金栗がコート姿で数十メートルをゆっくり走ってゴールテープを切ると「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム54年8か月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルム・オリンピック大会の全日程を終了する」という粋なアナウンスが流れた。「長い道のりでした。この間に孫が5人産まれました」。金栗のユーモアあふれるスピーチに温かい拍手が贈られた。

箱根駅伝の誕生に奮闘、日本で初めて高地トレーニングを考案し女子にも陸上競技への参加を広げた「マラソンの父・金栗」は1983=昭和58年11月13日に92歳で亡くなった。

ところで今年はストックホルム大会からちょうど100年目。現地ではさまざまな記念イベントが行われるなか、金栗のひ孫で熊本に住む25歳の銀行員男性が当時とほぼ同じコースで14日に行われた記念マラソンに参加してニュースになった。市民ランナーだから4時間25分かかったが見事完走した。しかも当時、金栗を介抱してくれた方の子孫にもあってお礼を伝えたという。「マラソンレースの途中で姿を消した日本人」の物語がようやく終わったようである。

*1945年  トルーマン米大統領は母親あてに手紙を書いてドイツのポツダムに向かった。

「スターリン、チャーチルと会う旅行の準備をしています。行きたくはないのだけど行かねばなりません」という内容だった。ベルリン郊外のポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿でこの日から8月2日まで「ポツダム会議」が開催された。主な議題は第二次世界大戦の戦後処理とソ連の対日参戦を含めた日本の終戦だったが、日本に対しては連合国として「ポツダム宣言」をどうのませるかにあった。しかも主役となるべきアメリカとソ連の代表は変わらなかったが、チャーチルは選挙の敗北で政権が交代したため途中でアトリーにバトンタッチするが不在期間があった。中華民国の代表である蒋介石は会談には参加していなかったのでトルーマンがいちいち無線で了解を取り付けたうえで自身を含め、3人分の署名をしたとされる。手紙からするとそうした役回りがわかっていたのか。

突き付けられた宣言を日本政府は論評なしにいきなり公表した。<御用新聞>になり下がっていた各紙は「笑止、対日降伏条件」「聖戦あくまで完遂」などと報道したが内実は13項目のうちでも「全日本軍の無条件降伏」の解釈でもめ、天皇制の維持を保証する条文がないなどと交渉するうちに広島・長崎の原爆投下やソ連の侵攻があって受諾せざるを得なくなる。

日本の運命を変えたといわれる。負けるほうは「これ以外の選択肢は、迅速且つ完全なる壊滅のみ」とあったから<無線でやりとり>するわけにはいかなかったのだろうけど。

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