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“5月17日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1956=昭和31年  石原裕次郎が日活映画『太陽の季節』でデビューした。

一橋大学生の兄・石原慎太郎が書いた同名小説の映画化だった。小説は文学界新人賞、芥川賞を受賞し、25万部を超えるベストセラーになったが<イチモツ>で障子を破るという問題のシーンが見られるということで封切り前から話題を呼んだ。映画は古川卓巳がメガホンをとり主演の長門裕之、南田洋子、岡田真澄らに混じって裕次郎は主人公の友人のボクシング部員というほんのチョイ役で登場した。

作者の実弟というだけでなく長い脚とギラギラしたまなざしの青年は強烈な存在感を示し、2作目となる同じ石原慎太郎原作『狂った果実』で主役を射止めて一躍人気スターになった。街には「慎太郎刈り」が大流行、湘南海岸には「太陽族」があふれた。

デビュー1年半の間に大ヒットした『嵐を呼ぶ男』など15本の映画に出演したというのだからこれもすさまじい。この作品で裕次郎は<国民的大スター>の地位を不動にし、作品のヒットで日活はそれまでの赤字経営を脱却して再建を果たした。

渡哲也主演によるリメイク版(66年、日活)や同じく近藤真彦・田原俊彦コンビでドラム合戦を繰り広げる3作目(83年、東宝)も話題になりました。

*1804=文化元年  喜多川歌麿の錦絵が幕府の禁忌に触れ「手鎖五十日」に処せられた。

問題にされたのは『絵本太閤記』を題材にした錦絵だった。手鎖は「てぐさり」とか「てじょう」と呼ばれる江戸時代に庶民に対して行われた刑罰のひとつで軽微な犯罪で入牢の代わりに前に組んだ両手に鉄でできた瓢箪型の手錠をかけ自宅で謹慎させる。5日ごとに同心がやって来て封印を確認する「錠改め」を行った。戯作者・山東京伝が1791=寛政3年に洒落本が禁令を犯したとしてこの刑に処せられた。

歌麿は当時大坂で人気を博していた小説にあてこんだ錦絵「太閤五女花見之図」とされる。豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした作品で、秀吉を登場させただけでなく将軍が正室や側室らと花見酒にふける姿が当代の将軍(=11代家斉)を揶揄したものと取られた。あおりで小説の『絵本太平記』も出版禁止となるなど大打撃を受けた。歌麿自身も精神的なショックを受けたこともあってやつれ果て、それまでの作品とは違って絵に張りがなくなりマンネリ化することになった。逆に各版元は「今のうちに描かせておこう」と注文が殺到した。それも重なり人気作家は2年後に<過労死>した。

*1859=安政6年  漂流民のジョセフ・ヒコが長崎に帰着した。

播磨国(兵庫県)加古郡に生まれた。幼名は彦太郎でのちに濱田彦蔵とした。「栄力丸」で江戸へ向かう途中、嵐にあい志摩半島・大王崎沖で難破した。漂流2か月目にアメリカの商船オークランド号に発見され、その後は仲間とサンフランシスコで過ごした。香港からペリーの船で帰国することになったが到着が遅れたことなどもありひとりでアメリカに戻りボルチモアのミッションスクールで学校教育を受けた。

帰国は日米修好通商条約で日本が開国したことを知り、望郷の念が湧いたからとされる。日系米人第1号として米国の市民権を取得していたので駐日公使・ハリスにより神奈川領事館通訳としての採用が内定、軍艦「ミシシッピー号」で長崎に入港した。

翌年、領事館の通訳を辞め貿易商館を開いたが尊皇攘夷の過激派に狙われるのを恐れてアメリカに帰国したが3年後に再来日、領事館での1年間の通訳ののち外国人居留地で茶の輸出や精米所を経営した。英字新聞を訳した『海外新聞』を発行したことで「新聞の父」と呼ばれる。1868=慶応4年には18年ぶりに故郷への帰郷を果たした。翌年には大阪造幣局の創設に尽力し大蔵省に勤めて国立銀行条例の編纂に力を貸したことも特筆される。

親しみを込めて「アメ彦」と呼ばれたが1897=明治30年12月12日に心臓病のため自宅で死去。享年61歳。現在と違って国籍法がなかったため日本人には戻れず<外国人>として東京・青山の外国人墓地に葬られた。

*1954年  アメリカ最高裁で黒人の差別教育は違憲であるという「ブラウン判決」が出された。

ウォーレン首席裁判官以下9人が全員一致で決定された画期的な判決だった。カンザス州の州法が黒人と白人の学生を分離した公立学校の設立を定めているのは平等な教育機会を否定するもので「人種分離した教育機関は本来不平等である」とした。

この判決で人種統合と公民権運動への道を開いたが南部諸州だけでなく国内でもさまざまな事件や裁判は多く、黒人差別はまだまだ進行形であるといわざるを得ないところに大国・アメリカの現実がある。

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