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“3月11日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1922=大正11年  午前8時36分、岐阜県各務ヶ原飛行場を一機の複葉機が飛び立った。

川西式K-3型通信機という。操縦するのは<鳥人>といわれた後藤勇吉。東京・上野で開催中の平和記念大博覧会への訪問飛行が目的で、乗客は飛行記者倶楽部幹事の都新聞・楠茂市記者と東京日日新聞・五十嵐力記者の2人。<取材のため無償>ではあったがこれがわが国初の旅客輸送となった。ドイツ製マイバッハ260馬力発動機付き、旅客と合わせ3人乗り。実験では速度時速220キロ、3000メートルの高度まで所用時間は10分の上昇力という結果が得られていた。川西飛行機部は博覧会に他にも数機を出品しており、会場上空から宣伝ビラを撒き、代々木練兵場に着陸後にすぐに分解して博覧会場の「航空館」に目玉として陳列する計画だった。

五十嵐記者が本社に送った原稿を紹介する。
プロペラが回転し始める。ゴロゴロと重そうな音であるが爽快である。飛行機は弦を離れた矢のように走ってフワリと宙に浮かんだ。一周するのかと思ったがそのまま場外に出た。高度が低いので岐阜の町は山陰にかくれて見えない。そのうちまたたく間に名古屋の街の上空に差しかかる。朝霞に妨げられて、名古屋城がどこだか判らないのでいい加減の処にカメラを向けた。真正面から吹き付ける強風が災いしてカメラがぶれ、ピントが定まらない。紺碧の波打ち際を辿って豊橋に来た時は高度計が一八〇〇メートルを指している。

「さあ、いよいよ豊橋に来たな」ちょうど船が港から出て広い大洋に出た時の感じである。灰白色の左翼がヌーッと青色の空に突き出て、微動している。その向こうには怒涛のように重なり合っている色々な山々。幾多の雲、そのまた上に、白線が幾つも並んでいるような日本アルプスの諸峰、思わず快哉を叫んだ。

もう少しだけ紹介する。
ところが浜松を過ぎて、天竜川を越し、袋井町の方向に進むと、二〇〇〇メートル近くあった高度がいつの間にか一四〇〇メートル程に降下して、時々灰色の雲が頭の上をかすめて飛んでいく。前方を見ると真暗闇だ。「雨だ」と私は叫ぶ。今までの太平楽はどこへか吹き飛び、にわかに針をうちこまれたような衝撃が走る。これまで畳の上を滑っていたような飛行機は、突然動揺を始め、主翼の張線が唸り始める。腰がフワッと宙に浮いて今度は椅子に嫌と言う程たたきつけられる。高度計はどんどん降下し始めた。Uターンをするや、巣を離れた鳥のように天竜川河口を旋回降下して河原にどすんと不時着陸した。不安で張りつめていた気持ちが一気にゆるんだ。

結局、当日はここで一泊。翌朝8時30分にいったん飛び立つが上昇中にプラグ1個が破損、引き返して別のものに交換し11時に再出発。静岡上空で密雲に閉じ込められたが三保半島から駿河湾に出たところでようやく脱出、戸田から箱根を一瞬にして飛び越えてやがて「くさむらに白蛇が遊んでいるように見える」多摩川を渡ると「煙で真っ黒な大東京が眼界に入った」。

記事はさらに<無事、着>ということを知らせるために高度九〇〇メートルで代々木練兵場の上を旋回して博覧会場へ向かった。ビラ二万枚を会場めがけて投下する。ビラはたちまち風に流されて吹雪と散る。勝ち誇って将軍のような気で会場の上を一周し、須田町、日本橋、銀座を経て東京日日新聞の上にくると高度六〇〇メートルほどに降下して旋回した。

四匹の毛虫が角突き合っているように見える日比谷交差点の電車をチラッとのぞいて一飛びに代々木練兵場に降りる。ときに午後十二時半。所要時間一時間半で百五十浬(278キロメートル)前日の航程を合わせ予定通り二時間半で二百五十浬(460キロメートル)を飛んだのだ。

たしかに「予定通りの時間と飛行距離」ではあったろうが、2日がかり、しかも飛行中に何度も肝を冷やした。ビラにしても操縦桿を離せない後藤に代わって記者2人が撒いたはずだ。まったくの有視界飛行で、<無事到着>を知らせるために先に代々木練兵場の上空を飛んだのは通信手段がそれ以外になかったからで、何ともご苦労な“体験飛行”だった。

*1582=天正10年  武田勝頼が織田信長の軍勢に攻められ「天目山の戦い」で自刃した。

智将武田信玄の子で戦が行われたのは現在の甲府市田野の天目山の麓とされる。これで鎌倉以来甲斐の守護をつとめてきた名家・武田氏は滅亡し、その遺領は徳川家康のものになった。勝頼の退去の勧めを聞かずに最後まで夫と行動を共にした継室=後妻は、小田原・北条氏政の妹にあたる。
辞世は「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき思いに消ゆる露の玉の緒」
わずか19年の命だった。死後に「桂林院」の法名が贈られた。

三橋美智也の唄で大ヒットし<山梨の県民歌>とまで言われるご存じの『武田節』にある「祖霊ましますこの山河、敵に踏ませてなるものか」の地も蹂躙され「おのおの京をめざしつつ」の野望もここに潰えてしまったわけである。

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