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“2月29日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1956=昭和31年  大阪・道頓堀の文楽座で『お蝶夫人』の舞台稽古がはじまった。

文楽を中心とした文楽座が新築移転してオープンしたのは正月。道頓堀のいちばん東端、もとは弁天座があった場所だった。経営を担っていた松竹の新企画で公演は3月2日に迫っていたが、美術考証を重ねた首(かしら)の製作から、台本、脚色、三味線、人形の所作検討まであらゆる準備に手間取ってようやく出演者全員が集まっての稽古に漕ぎつけた。

いくら宣伝効果絶大とはいえ<オペラの浄瑠璃化>にはファンだけではなく座員たちも驚いたのなんの。もちろんプッチーニの『蝶々夫人』を翻案した『お蝶夫人』だから<お蝶夫人>はともかくアメリカ海軍士官の<ピンカートン>も登場するし、濡れ場ではキスシーンだってある。まさに文楽はじまって以来の珍事だった。

セリフはいいとして音入れは太棹三味線だけというわけにはいかないので関西交響楽団が“合奏”することになったし、アリア「ある晴れた日に」は「思いは晴るる朝の海、沖に煙たなびくは」と擬古文調に仕上がった。キスシーンも「自然すぎるくらい舞台進行に溶け込んでいた」というのが芸能文化担当記者の評だった。

連日満員を続けたのに気を良くした松竹は8月、第2弾として『ハムレット』にも挑戦した。有名なあのセリフが「ああ、こうして新しく生きるべきか、それとも伝統にしがみついて生きざる=死ぬ=べきか!」だったかはどうだか。

*1980=昭和55年  長崎県壱岐島でアメリカ人活動家による「イルカ解放事件」が起きた。

当時の壱岐島周辺海域はイルカによるブリの食害被害が深刻で、和歌山県の太地などのやり方を学んだ地元漁師が毎年、イルカの追い込み漁を続けていた。活動家たちは環境問題や動物の権利擁護を訴え何年にもわたって島に通い、イルカ漁の中止を訴えてきたが地元漁師とは意見の溝が埋まらなかった。なかには「イルカと会話して悪さをしないように言って聞かせる」などという風変わりな人物までやってきた。案の定、効果はなかったがそんななかで活動家側の男性が強硬手段に出た。

前日までに追い込み漁で捕まえていたイルカ群に夜間にゴムボートで近づいて漁網を切断、約300頭を逃がしたのだ。現在の行動派環境団体の先駆になった事件で、裁判でも争われ、威力業務妨害事件として有罪となったが活動家が国外追放処分になっただけで幕に。

それから間もなくブリも突然といっていいくらいいなくなった。環境団体諸氏が<ハーメルンの笛吹き男>みたいにブリをどこかにやってしまったわけではないだろうが、イルカ騒動も昔語りに聞くだけになった。ブリが逃げればイルカまで!「海はまっこと不思議ごたる!」の一幕である。

*1944=昭和19年  歌舞伎座、新橋演舞場、帝劇など<高級享楽>の1年間の停止が決まった。

25日に閣議決定された「決戦非常措置要綱」に基づいて高級興行場とされた9劇場で、他には東劇、有楽座、明治座、東宝劇場、国際劇場、日劇が指定された。「帝都の決戦態勢を確立して必勝への力強い一歩を踏み出す」ために3月5日からとされた。だが、劇場側もこうなれば中途半端だからといずれも1日から興行を停止した。そりゃそうでしょうお客のほうも空襲は怖いしそういう気分にもなれなかった。

さらに向こう1年間の待合、芸妓屋、高級料理屋、飲食店、カフェ―、喫茶店、が休業になることで全体では9千8百軒にのぼり、芸妓、女給1万8千人は<転廃>となると発表された。休業した業者には租税の減免を芸妓、女給には「生活援護金」を支給するとしたが本当に配られたのであろうか。

高級料理屋としてあげられたのは帝国ホテル、精養軒、宝亭、雅叙園、星ケ岡茶寮、嵯峨野、錦水、竹葉、今半など850軒にのぼり、飲食店として許可したものでも営業の実態が料理屋に該当するとして大東亜会館、丸之内ホテル、学士会館、電気会館、第一ホテル、中央亭、日本クラブ、工業倶楽部、交詢社、日本橋クラブ、山王ホテルなど16カ所も閉鎖に追い込まれた。ただし、ホテルの場合は宿泊者に昼食1円、夕食2円以内で食事を提供すことは構わないとしたが結婚披露宴は全面的に禁止となった。ここにあげたなかでも空襲に遭ってそのまま復活しなかったところもある。

渋谷の「疎開指定区域」では甘栗太郎、東京パン、明治製菓、東宝映画館などが立ち退きを始め、従業員が総出で出勤し食器類やショーケース、家具などを連日トラックに積み込んだ。新聞には「疎開第一陣、渋谷区民の進発」の見出しの下には手作業でトラックに荷物を積み込む写真が載っている。

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