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“1月14日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1959=昭和34年  南極の昭和基地に残されていた樺太犬・タロとジロの生存が確認された。

2頭は1年前に天候悪化でやむなく小型飛行機で基地を脱出した西堀栄三郎隊長らの第1次越冬隊が残してきた15頭の生き残りだった。犬たちを置いて帰国したことで観測隊への風当たりは強く<置き去りにした>と責める声もあった。それだけに第3次越冬隊は上空からのヘリで犬発見の第一報をいち早く伝えた。朝日新聞は「昭和基地は無事だった。犬も2頭生きていた。施設、すぐにも使える」と朝刊第一面に2頭の写真を載せるなど各紙の報道が日本じゅうの人々の胸を熱くさせた。

2頭はその後も南極にとどまったがジロは翌年7月に病死、タロは1961=昭和36年5月4日に4年半ぶりに南極観測船「宗谷」で東京・晴海桟橋に帰国した。その後は札幌市の北海道大学植物園で飼育されていたが1970=昭和45年8月に老衰のため死んだ。14歳7カ月は人間でいえば80~90歳で天寿を全うしての大往生だった。

犬たちをめぐっては映画『南極物語』が大ヒットしたほか犬たちを「たたえる歌」や記念硬貨、本が何冊も出版されてちょっとした<樺太犬ブーム>になった。開業したばかりの東京タワーには15頭の「樺太犬記念像」が設置されて話題になりました。

*661=斉明7年  万葉歌人の額田王(ぬかたのおおきみ)が道後温泉に泊まった。

額田王はのちの天武天皇=大海人皇子に嫁したとされる。百済の使者が来朝して新羅と唐の連合軍が攻めてきたので救援を要請した。時の女帝・斉明天皇は自ら筑紫(福岡)に赴いて百済救援軍を監督することになった。正月6日に難波を船出して西に向かう。この一行には皇太子・中大兄、その弟・大海人皇子と額田王らがいた。

途中で立ち寄ったのが伊予国熟田津(にぎたつ)に近い石湯行宮(かりみや)で現在の道後温泉と考えられている。このときの歌が万葉集に残る

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな

では一行は温泉に入ったのか。残念ながらその記録は残っていないが一刻も早く筑紫へ向かわなければならなかったろうから<先を急いだ>か。

*1860=安政7年  「月も朧に白魚の」の名せりふでしられる『三人吉三廓初買』が初演された。

仮名を振ると「おぼろ」「さんにんきちざくるわのはつがい」だが1行目が間延びしそうなので省略した。作者は河竹黙阿弥、江戸・市村座で初演された。夜道に立って客を取る夜鷹のおとせは昨夜の客が忘れていった百両の金を届けようと隅田川のほとり大川端を通りかかるところから幕が開く。

「世話狂言」のなかでも盗賊を主人公にした「白波物」といわれる。いま風なら<ピカレスク・ロマン>ですな。<八百屋お七>に化けた「お嬢吉三」をはじめ同じ吉三郎の名をもつ「お坊吉三」「和尚吉三」という盗賊三人の出会いから破滅までを描く。

おなじみ「お嬢吉三」の七五調のせりふ:
月も朧に白魚の、篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに、心持よくうかうかと、浮かれ鳥のたゞ一羽、塒(ねぐら)に帰る川端で、棹の雫が濡手で粟、思いがけなく手に入る百両・・・
もちろん最後は「こいつあ春から縁起がいゝわえ」。

*1873=明治6年  日刊紙「日新眞事誌」に死亡広告第一号が出された。

本日十二日ノ朝外務少輔上野景範ノ父上野景賢病死セラレ来ル十五日午後第一時築地仲通リ同氏邸宅ヨリ出棺芝伊更子大圓寺エ葬送相成筈ニ付同氏友人等ノ為メニ之ヲ報告ス
上野氏友人

これは上野景範という人の父親の死を悼んで友人たちが出稿したようだ。いまなら「友人代表」といったところだろうか。喪主の上野氏は旧・鹿児島藩士で明治政府の外国事務御用掛、弁務使(外交官)を経て全権公使として欧米諸国に勤務している。

「日新眞事誌」は前年に明治政府のお雇い英国人のジョン・レディー・ブラックが創刊した初の日本語新聞だった。<近代的新聞の先駆け>とされ発行場所も同じ築地だった。内容は死亡広告だったが当時はまだ「黒枠」で囲んではいなかった。これを読んだ人たちはまず築地の上野邸へ弔問に行ったのだろうが、わざわざ大圓寺を入れたのはなぜだろう。親族以外でも出棺に付き添って最後まで見送る人へのお知らせというか配慮だったか。

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